森田御陣とは、「庄内の乱」の際に島津の本陣であった。
庄内の乱は、慶長4年(1599)、都城の領主で島津氏宗家の宿老であった伊集院幸侃(いじゅういんこうかん)が、主家の島津忠恒に野心ありと疑われて、京都で殺された事件が直接の原因である。
幸侃の子忠真は、都城領内の諸城をもって、島津氏と戦ったが翌慶長5年(1600)春に終結した。
島津忠恒は、慶長4年(1599)10月、山田方面から進軍し、伊集院側の志和池城と野々美谷城の間に陣を構えた。陣には、忠恒本陣・北郷仁ほか諸郡などが詰め、志和池城の西端に接して井楼を組み、城内を見下ろして鉄砲をはなったという。
この陣跡は古図によると各陣ごとに曲輪を設け、真下を大淀川が流れ要塞堅固な城郭に近いもので、その規模は広大であったことがしられる。今も空堀や各陣営の一部が残り、当時の面影をしのぶことができる。 |