都城市
都城飛行場 昭和8年(1933)、都城連隊(64連隊)が中国満州より帰国したのを記念して、今の自衛隊訓練所(都原町)に建設されたのが都城飛行場です。 建設にたずさわった人は延べ38,300名あまりで、総工費49,600円あまりをかけた大工事でした。この飛行場は、昭和10年(1935)におこなわれた陸軍の特別大演習に使用されました。
昭和17年(1942)には逓信省(旧郵政省)の航空機乗員養成所が開所され、昭和19年(1944)に陸軍に接収されるまで操縦訓練が行われました。 戦況が厳しくなった昭和19年(1944)、今の都北町と志和池に飛行場が建設され、それぞれ東飛行場・北飛行場と呼ばれたため、それまでの飛行場は西飛行場と呼ばれるようになりました。
この三つの飛行場に陸軍飛行戦隊が配備されたのです。昭和20年(1945)4月からは、東西の飛行場から特攻隊がオキナワに出撃していきました。
都城大空襲 都城は陸軍連隊と飛行場、航空機制作工場があったため、米軍空襲の目標とされ、昭和20年(1945)3月18日以降度重なる空襲にあいます。
5月8日の空襲では、市内全域において爆弾投下と機銃掃射を受けました。学徒動員で着ていた県立小林中学校3年生10名をはじめ、多くの死傷者が出ました。
最大のものは8月6日の空襲でした。正午過ぎから4度にわたって空襲を行い、市街地は猛火に包まれ、被災人口17,000名余、死者約90名、負傷者40名の被害が出ました。
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山田町
1.沖縄児童疎開 戦時中「沖縄は戦場化する恐れあり」の状態を迎え沖縄の児童を本土の各地に疎開させることになりました。山田小と木之川内小にも、昭和19年(1944)9月30日に児童が疎開してきました。
昭和20年(1945)8月になると、戦争がさらに激しくなり、都城市を大空襲、山田小にも1発の不発弾が落下したのを受け、山田小、木之川内小に疎開していた児童は引き上げ、田中公民館に合同収容して生活するようなりました。地域の方々は、戦時中の貧しさにもかかわらず、疎開生をわが子と思ってかわいがり、食物を分け与えたりしました。
終戦後は、すぐ、兄弟や親類の方が引き取りに来て、残りの児童一団も先生に引率され、無事帰郷しました。(木之川内小学校「創立五十年記念誌」より)
2.都城空襲による犠牲 戦時中、都城市は、大空襲により町の大半が炎上しました。この空襲の犠牲者の中に、当時都城中学校(のちの泉ケ丘高校)に通う1年生のH君(谷頭出身)がいました。
当時、同中に通う4年生のYさんと級友らは、防空壕の中で全身火に焼かれ、火傷を負っている彼を救い出し、病院に運びましたが、医師からは鎮痛剤しか売ってもらえなかったうえに、「早く家へつれて帰りなさい」と言われ、自身の危険も顧みず、遠い山田町の自宅まで歩いて運んでいきました。途中、何度か息を引き取ろうする彼でしたが、「もうすぐ家に着くぞ、頑張れ」と活を入れられ、生命を持ち堪えましたが、自宅に着き、両親と顔を合わせたら間もなく息を引き取りました。(記念館「都城泉ケ丘高校百年史」より)
3「ふりそでの少女像・未来に生きる子ら」〜長崎原爆〜 長崎市の長崎原爆資料館には、原爆で尊い命を失った少女の像が建っています。この像の一人は、山田町出身の福留美奈子さん(当時9才)です。
美奈子さんは、両親の仕事の都合で長崎に預けられた時に原爆の犠牲となり、親類の手で、もう一人の少女とともに晴れ着姿で荼毘(火葬)にふされました。
美奈子さんの母親は、今から17年前、その場面を描いた1枚の絵(「悲しき別れ〜荼毘」松添博氏画)で娘の最後を知り、なんとか供養してやりたいと思い続けていました。
この像は、その思いを知った京都府綾部市内の中・高生らが、像をつくる会を結成し、全国から募金を募りたてたものです。
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高城町
高城郷土資料館のある月山日和城の北側に忠霊塔があります。これは日中戦争、太平洋戦争でなくなった戦没者の慰霊のために作られたものです。
戦没者 昭和12年(1937)から昭和20(1945)まで続いた日中戦争・太平洋戦争において645名以上の町内の人たちが犠牲となりました。
中国大陸をはじめ、ガダルカナル島、サイパン島、沖縄など南太平洋一帯の戦場にてなくなった人たちや、昭和20年(1945)5月11日の有水田辺へ落とされた爆弾により5名、同年8月9日山之口駅の空襲による2名のほか、徴用先の空襲などでも多くの犠牲者が出ました。
戦争の跡 高城町は戦争の終わりごろ、各小学校が接収され多くの軍人が来ていました。 慶正寺にいた部隊により月山日和城下に大きく掘られた防空壕は今でも危険なまま残っています。また田辺に落ちた爆弾の跡はつい最近まですりばち状のクレーターの姿を見ることができました。
生活 戦争は軍隊へ行った人々のほかに一般人たちにも大きな影響を与えました。 学校では工員の少なくなった工場などへの勤労動員が進められ、授業もほとんど行われなくなりました。 各家庭は隣組という組織にくみこまれ、不足していた日用品の配給や軍事演習などをさせられました。町内の方々より寄贈・寄託していただいた当時を知る多くの資料は郷土資料館に展示してあります。
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