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人物紹介

北郷資忠 「ほんごうすけただ」(生没年不詳)

島津宗家4代忠宗の6男。650年の歴史に連なる北郷家の始祖。

室町幕府より北郷300町を与えられ都城盆地支配の礎となる。周辺豪族との戦い、南北朝時代の混乱を経て次代を嫡男義久に託す。

後醍醐天皇と室町幕府の戦い−島津家の転機

北郷資忠は、室町時代前期に島津宗家4代当主である島津忠宗【しまづ ただむね 1251年(建長3年)−1325年12月17日(正中2年11月12日)】の六男として生まれました。

父親である忠宗は、元寇の合戦で名を挙げ、1284年、父(久経)の死により島津宗家の家督を継ぎ、鎌倉幕府より1317年、日向国高知尾庄や肥前国松浦庄などの地頭に任じられましたが、当時の南九州は大小の豪族の勢力が多く点在しており、島津家の支配が完全に及んでおりませんでした。

しかし鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇側と室町幕府側の戦いが始まると、島津家に転機が訪れます。

「七人島津」の礎

忠宗には7人の男子がおり、それぞれが室町幕府側(足利尊氏)に加わり九州各地で戦うことになりました。長男貞久が宗家の家督を継ぎ、6人の兄弟達も恩賞として各地の地頭に任ぜられます。

次男忠氏は和泉氏、3男忠光は佐多氏、4男時久は新納氏、5男資久は樺山氏、6男資忠は北郷氏、7男久泰は石坂氏を興し、南九州の各地での支配を強めて行くことになり、後に「七人島津」と呼ばれる礎となって行きました。

対等の関係

宗家と分家に分かれた島津氏ですが、7男の「石坂氏」以外の六家は、将軍家・幕府との関係においてそれぞれが身分対等とされ、上下の別はありませんでした。

以降の時代に「七人島津」の島津宗家を除いた六家は、戦いの運命の中で変遷(領地を失ったり、領地が変わったり)を余儀なくされますが、北郷家(都城島津家)と島津宗家の対等の関係は江戸末期まで変わらず、藩内の「私領領主」として将軍に拝謁することも許されていました。

当時、将軍に拝謁できたのは「藩の領主」のみとされていましたので、極めて異例な立場だったのです。

「越中国安部郷」

時代を戻して、「北郷」と名乗る前の資忠のはっきりとした生没年は解っておりませんが、1318年(文保3年)時の鎌倉幕府より、「北郷参ヶ二山西中郷」の地を与えられたと記録にあります。

1336年(建武3年)、島津氏の大隅国加瀬田城攻めに資忠は参加しており、南九州各地を転戦したその功を評価され、1337年(延元2年)、「越中国安部郷」を与えられています。

都城島津家の歴史がスタート

南北朝時代に入ると資忠は、北朝の足利尊氏方に島津宗家と共に加わり、「筑前国金隈合戦」の功により、1352年(正平7年)、「北郷300町」を室町幕府より与えられました。

居城を「薩摩迫」に定め、地名を取って姓を「北郷」に改め、北郷家(都城島津家)の歴史がスタートするのです。そこに祭られていた中霧島安原権現の「安」の字を取り、地名を「安永」に改めたのも、この頃と言われています。

 

室町幕府から土地を与えられたとは言っても、南北朝の争いの激しかった時代に明確な権威などは無く、大小の豪族が支配していたこの土地では、足掛かりを作るために有力な豪族の力を取り込む必要がありました。

当時の宮丸村(都城)を支配していたのは「宮丸蔵人時道」という豪族でしたが、彼には後を継ぐ直系の男子がおらず、資忠は彼から娘を貰いうけ夫人とし、宮丸の土地を譲り受けました。

二人の間には後に嫡子(後継)となる2代義久(よしひさ)を含めた5男1女が生まれ、繁栄が続いて行く様かに思われましたが、時代は南北朝時代、激動の奔流が資忠の運命を流転させます。

「都之城」発展の礎

北朝方の室町幕府より「北郷三百町」を与えられた四年後、南朝方の懐良親王(かねながしんのう)を筆頭とする勢力が、南九州で大きな力を持ち始めていました。北朝方は尊氏方と弟の直義方とに分裂(観応の擾乱)、直義方の畠山氏との争いに押され島津宗家は南朝方の勢いに飲まれることになり、その軍門に下るのでした(観応の擾乱終結後に北朝方に復帰)。

足利尊氏はこれに怒り、資忠に与えた「北郷の地」の一部を召し上げ、肥後の相良氏に与える沙汰を下します。以降、北郷の地は、相良氏を始めとした周辺豪族との戦いに明け暮れる事になり、統一まで8代忠相(ただすけ)の時代を待つ事になるのでした。

 

一方、資忠は島津宗家の当主である兄、貞久より「大隅国本荘内財部院」(財部町)を譲り受け、2代目義久が財部院を望む「都之城」を拠点とし、以降の町発展の礎になっていきました。

没年は不明ですが、資忠の命日は9月20日とされており、墓所は旧山久院(庄内町)に夫妻の墓が今もひっそりと佇んでいます。

ここまで