系図
二代 北郷義久 (生没年不詳)
略歴
北郷家初代資忠の息子。北郷家の拠点を北郷から都城の地へと移す。都島に「都之城」を築き、現在の地名となる都城を名乗る。生涯を通して都城の地を外勢力から守り抜き、弟・嫡男を失いながらも晩年まで奮戦する。
墓は庄内町釣こう院址に現在も静かに佇んでいる。
「都之城」築城
北郷家初代 資忠(すけただ)の長男として、宮丸蔵人道時の娘との間に生まれた義久(よしひさ)は、幼名を宮二郎と呼ばれていました。
元服を機に義久を名乗り、父 資忠と共に南九州各地を勇戦して、ついに天授元年(1375年)、島津荘南郷(現在の都城市都島町)太古より神武天皇の宮跡があったと伝えられる場所に城を築き、これを「都之城」と名付けたのです。現在まで続く都城と言う地名の起こりは、この城の名前からと伝えられています。
初代 資忠が、北郷300町を足利将軍家より与えられて約二十年、都城盆地を眼前に見る城を手に入れた義久ですが、未だ周辺地域は大小の豪族の小競り合いが続いており、中央では北朝と南朝を隔てた二つの朝廷が激しく対立する南北朝時代。都城盆地に平穏が訪れるのは、まだまだ先の時代になるのでした。
南九州 戦乱の嵐
そんな中、南朝方の拠点である太宰府を落とした九州探題 今川貞世(了俊)の元で、ある騒動が巻き起こります。当時九州の有力な守護であった薩摩国 島津氏久(しまづ うじひさ)・豊後国 大友親世(おおとも ちかよ)、そして筑前国 少弐冬資(しょうに ふゆすけ)。この三名を、今川貞世は南朝方の菊池氏を攻めるために自陣に招集しますが、少弐冬資は中々参陣に応じようとはしませんでした。
島津宗家 氏久の仲介により冬資は参陣しますが、歓迎の宴の最中に殺されてしましまいます(水島の変)。これに怒った氏久はそれまでの北朝との関係を断ち、南朝方に味方することになりました。
義久もこれに同調し島津宗家に従いますが、薩摩・大隅・日向の豪族達の多くが北朝に味方し、南九州に戦乱の嵐が吹き荒れることになるのです。
5,000の敵、80の味方
北朝方の室町幕府は、島津氏攻略のため今川満範(みつのり 貞世の弟)を南九州に派遣します。島津氏の薩摩・大隅の守護職を罷免し、自身が両守護職についた貞世は、島南九州各地の豪族宛に書状を送り、島津家討伐のための兵を募るのでした。
天授三年、今川軍は島津氏の支城である「都之城」を包囲し戦端が開こうとしていました。周辺豪族を味方につけた今川軍その数、約5,000名。対する都城勢は義久の弟で樺山家を相続した音久、同じく弟の基忠と忠宣。一族を中心とした結束を誇るも、未だ北郷・都島の小領主に過ぎない北郷家の手勢は約80名。
今川軍来襲の知らせを受けて、島津宗家 氏久も直ちに自ら救援の軍を都城へ差し向けますが、援軍到来まで5,000の敵に対して80名の味方で立ち向かわなければなりません。
都城盆地 未曾有の戦い
こうして都城盆地に於いての未曾有となる激烈な戦いは、幕をあげるのでした。
怒涛の様な攻めを見せる今川軍に対して、城に立てこもる都城勢も激しい抵抗を見せます。少ない手勢を総動員して城の守りに当たり、時には城門を開いて今川軍に突撃し、結束の浅い敵軍を混乱させますが、多勢に無勢。激しい戦いの中、義久の弟の基忠と忠宣は戦死。自ら剣を振るって戦った義久も重傷を負いました。
そんな中、島津宗家氏久率いる援軍は志布志を出て、金御岳に布陣。ただならぬ都之城の様子を察知し、ただちに今川軍に突撃しました。不意を突かれた今川軍も抵抗を見せますが、やがて下財部方面へ敗走します。こうして大きな犠牲を払いながらも、北郷・島津両軍は落城寸前の都之城を守り切る事が出来たのです。この戦いはのちに「蓑原の戦い」と呼ばれるのでした。
しかし、それからも今川方との戦いは続き、義久は晩年まで戦いに明け暮れることになるのです。
釣こう院址に墓が残る
義久は弟二人(基忠・忠宣)の菩提を弔うため、この地に地蔵堂を建立します。後に延命寺が創設された折に、地蔵堂は境内に移されています。
南朝方はこの戦いを大いに顕彰し、義久の弟である樺山音久の軍功を賞して使者を送っています。こののちも義久と音久は都城の地を守り続けています。
応永八(1401年)年2月 、義久は宗家氏久の後を継いだ元久と共に、島津荘を興した平季基の建立した(1026年)神柱神社(現在の梅北町 黒尾神社)を修復しています。
年号不詳6月、義久は64歳でこの世を去ります。義久には6男があり長兄二人は出家し、生前、3男 久秀(ひさひで)に家督を譲ります。墓は庄内町 釣こう院址に現在も有り、静かに佇んでいます。


