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人物紹介

六代 北郷敏久 永享2年(1430)~明応9年(1500)

父持久の悲願であった都城への復帰を果たし安永城から都之城へと移る。島津宗家と伊東祐国との戦いで戦功を挙げ、島津宗家より中郷300町を与えられ、その領土に加えることになる。

安永城 築城

大覚寺義昭事件に連座した父 持久(もちひさ)と共に、閉居期間を高城で過ごした敏久は、謹慎が解けたのちに薩摩迫に移り、応仁2年(1462)、北郷安永勢田ヶ辻(庄内町)に安永城を築きます。

この築城については、島津宗家国久や同豊州家島津季久が人材などを派遣し、手厚く助勢したと伝えられています。

父の悲願

父 持久の死去ののち、文明8年(1476)6月21日に、念願であった旧領都城の回復を島津宗家 立久の命により成し遂げ、居城を安永城から都之城へ移っています。

都城に復帰後、荒れ果てていた社寺や祖先の霊廟の修復に、一族をあげて取り組んだと伝えられています。

 

父の悲願であった旧領回復を果たし、安堵する敏久でしたが、島津宗家では立久の後を忠昌が年若く継承したため主導権争いが勃発し、それに付け入る形で周辺の伊東氏や相良氏が不穏な動きを見せるのでした。

島津久逸の叛旗

文明17年(1485)、島津氏一族 伊作家(いざくけ) 島津久逸(しまづ ひさやす)が、伊東祐国(いとう すけくに)・北原氏と共謀して島津宗家に叛旗を翻します。伊東祐国らは新納忠継の治める飫肥・酒谷の諸城へ侵攻し、これに篭城する形で対抗した新納忠継は、補給路をふさがれ孤立することになりました。

 

同年6月に入ると島津宗家 忠昌は自ら軍を率い、新納軍の救援へと向かいます。この時、敏久も軍に加わり、忠昌より先陣を命じられ精鋭2,800名を率いて各地を奮戦し、連戦連勝を重ねた敏久は遂に伊東祐国を討ち取り、戦いに勝利します。

この戦功により忠昌から中郷300町を与えられることになるのでした。

1500年、71歳で没す

明応9年(1500)、1月21日敏久は71歳でこの世を去ります。

敏久には4男1女があり、長子 数久(かずひさ)が家督を相続することになりました。