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人物紹介

十代 北郷時久

享禄3年(1530)〜慶長元年(1596)

飫肥島津豊州家の養子となった忠朝の嫡男。忠朝の飫肥いりにともない17歳で北郷家の家督を継ぐ、伊東家や肝付家との戦いの中で島津宗家の中で、その勢力を伸ばして行く。

九州各地を転戦し島津宗家の勝利に大いに貢献するが、豊臣秀吉の侵攻に宗家とともに降伏する。

豊臣政権の元、物資・兵力での協力をするが、最晩年には嫡男忠虎が死に太閤検地により領地を祁答院宮之城へ移される。

17歳

忠親(ただちか)が豊州島津家の養子となったため、17歳で北郷家の家督を継いた時久(ときひさ)は、天文15年(1546)、祖父 忠相(ただすけ)と共に島津宗家 貴久・飫肥島津豊洲家と伊東家との戦いに参加し、大いに活躍します。伊東家はこの戦の後、本拠地佐土原に撤退しますが、豊州家の父 忠親の伊東家との戦いは以後20数年もの間、続き北郷家もこれを支援する戦いを続けていくことになるのです。

 

この頃、長きに渡る島津宗家の内紛は、当主 貴久の元にまとまりつつあり、島津貴久(しまづ たかひさ) は一家勢力として北郷家や豊州家との結びつきを深め、南九州の覇権を狙っていました。

しかし、周辺勢力の抵抗は未だ激しく、島津宗家の南九州支配まではもうしばらくの時を待たねばなりませんでした。

伊東家への対抗に暗雲

大隅高山の城主 肝付兼続(きもつき かねつぐ)は、永禄元年(1558)、都城の時久を攻め、一転し島津忠親の領内である志布志を襲って忠親とも戦い、翌年には大隅松山城を落としています。背後で飫肥を狙う伊東家と同盟を結び、両面作戦による大隅半島支配の目的があったと考えられています。

 

永禄四年(1562)、勢いに乗る肝付勢は島津氏の支城福山廻城を落とし、島津家家中に大きな衝撃を与えます。大隅半島の北の入り口である福山廻城は、戦略的にも多大な意味を持っていました。

島津宗家は元より、都城の時久、飫肥の忠親も援軍を差し向けますが、飫肥の背後では伊東義祐(いとう よしすけ)が着々と飫肥攻めの軍備を固めていました。島津宗家は辛くも勝利し城を奪還、忠親も急ぎ飫肥に帰還する事が出来ましたが、この戦いで島津宗家は多くの武将を失い、この先の飫肥の救援が不可能となりました。

 

結果、伊東家への抵抗勢力は、飫肥勢 忠親と都城勢 時久の2軍勢のみとなり、廻城の戦いで手勢を多く失う結果となった時久は、厳しい局面に立たされる事になり、伊東家への対抗に暗雲が立ち始めます。

肝付家との戦い、飫肥の支援

その後、伊東家が飫肥城を降伏させ明け渡させたのち、忠親が奪還するといった攻防が続き、時久もたびたび軍を送りこれを支援しています。

忠親は自らの領地である梅北を時久に、末吉を島津宗家に献上し連携を図ります。

 

飫肥への軍の派遣がままらない島津宗家は末吉を時久に与え、都城勢の基盤の強化にを図るのでした。未だ続く肝付家との戦い、飫肥の支援といった両面の動きに時久は忙殺されるのでした。

1568年、伊東軍 軍勢2万

そして永禄11年(1568)1月、伊東義祐はこれまでの飫肥攻めで最大の軍勢2万を差し向け、侵攻を開始しました。

酒谷城に布陣した時久は、多くの補給品を飫肥勢に支援するべく戦いますが、伊東軍の包囲は固く、補給品で動きの取れない時久軍は、伊東軍の攻撃に多大な損害を受ける結果となってしまうのでした。

 

補給を絶たれた飫肥城はついに陥落し、忠親(ただちか)は僅かな手勢と共に都城へ落ち延びます。

真幸院で島津宗家、飫肥で忠親・時久軍と両面で戦いを強いられていた伊東家は一方を制すことで、その戦略を大きく前進させることになるのです。

全面対決へ備え

飫肥攻略を終えた伊東義祐は、大口の菱刈氏と手を結び、小林へと兵を動かします。新たな局面を迎えた島津宗家 貴久の後を継いだ義久は、時久と「一味同心」の誓約を交わし、肝付・伊東攻略のための関係を強化しました。

 

永禄12年(1569)5月、島津宗家 義久は菱刈氏攻略のため、兵を大口へ派遣し、時久も家臣北郷小次郎を派遣します。同年9月に大口城は落ち、菱刈氏は力を失い後顧の憂いを無くした島津宗家は、伊東家との全面対決に備えるのでした。

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大隅半島の支配完了

一方、小林へと兵を動かした伊東家は高原城を落とし、加久藤攻めを画策し、元亀3年(1572)5月、「木崎原合戦」と呼ばれた戦いが始まります。

かつて飫肥の島津忠親の養子であった島津義弘(忠平)は、伊東軍3,000を軍勢300で破り、伊東家はこの戦いで多くの一門を失い、島津宗家と伊東家のパワーバランスは大きく島津家側に傾くことになるのでした。

 

勢い付く島津宗家は大隅半島を一気に平定すべく兵を送り、時久も嫡男相久・次男忠虎を伴ない、肝付氏攻略へ動き出します。元亀4年(1573)1月、次代を担う息子たちを加えた時久の都城勢は、住吉原で肝付勢を大いに破り、肝付勢は松山へと撤退していきました。

同年8月には大隅半島に群拠する肝付氏を初めとした勢力を屈服させ、島津宗家は大隅半島の支配を完了するのでした。

高原城 落城

天正4年(1576)、島津宗家 義久は伊東家真幸院の本拠地である高原城へ進軍を開始し、時久も次男忠虎を伴ない参陣しています。島津家と伊東家との一大決戦になると思われた戦いでしたが、伊東家の内紛に付け込んだ貴久は、様々な調略を用いて伊東家の弱体化を図り、高原城は時を待たずして落城します。

 

伊東家の動揺と義久の調略は思わぬ効果を生み、程なくして伊東義祐は本拠地である都於郡・佐土原を捨て、豊後(大分)の大友氏への元へと落ち延びて行き、こうして島津宗家は薩摩・大隅・日向での支配権を確立させることになるのでした。

1579年 都城の事件

天正6年(1578)3月〜9月に大友宗麟(おおとも そうりん)は3万兵を起こし、島津氏に恭順した宮崎北部の勢力を次々と破り、日向での支配権を掛けて、島津氏と全面対決の道へ向かいます。

島津義久は軍を野尻に進め、時久も息子相久・忠虎を含めた数千の軍勢を同陣させました。同年11月の新納院高城(木城町)の戦いでは忠虎は島津軍の先鋒を務め、数で勝る大友軍を打ち破る原動力となり、島津軍は大友軍を縦横に挟撃してこれを大いに破り、大友軍は豊後へ敗走します(耳川の合戦)。

 

北郷時久・忠虎は合戦での活躍により、多くの褒賞を受けますが、一方天正7年(1579)、都城ではある事件が勃発します。時久の長子 相久が突如謀反を疑われ、時久は軍勢を安永金石城へ差し向け、相久は時久の軍勢に抗う事なく自害して果てます。

この事件は様々な憶測を現在まで伝えますが、城下では相久の霊が現れたという噂や怪異が続発し、家臣・領民も無念の最期を遂げた相久を大いに偲ぶのでした。

 

天正9年(1581)、その霊を弔うため時久は都島に「若宮八幡宮」を建立し、以後、相久の霊は、霊八幡宮・兼喜大明神・兼喜神社を名を変えつつ、現在も都城島津家によって祀られ続けています。

秀吉 15万の軍

以降の島津家は九州での覇権を成立させるべく、龍造寺氏や相良氏を破り、「九州太守」としての立場を打ち立てようとしますが、天正15年(1587)1月、関白 豊臣秀吉は九州侵攻の軍を起こし併せて15万の大軍を送り込みます。

時久も島津宗家とともに戦いますが、秀吉の軍は同年5月川内に入り、島津宗家は降伏します。

 

時久は主戦派として最後まで戦う意思を島津宗家に伝え、自らの領内の城を固めますが、島津宗家の降伏を受け、秀吉の重臣石田三成と会合し、ようやく自らも降伏します。島津宗家は降伏に伴ない、一門・家臣の中から人質を秀吉の元に送っています。時久は3男三久と忠頼を人質として送り出しました。

島津家の分割と大名の分国化を図る秀吉は、各地の勢力に大名化を認める「御朱印状」を送付しました。これにより大勢力の切り崩しを図りますが、時久はこれを拒否します。しかし、人質を送った事により、島津氏の家臣としての内包を認められ、所領を保証されることになりました。

 

天正16年(1589)、島津義弘は京へ上り、時久も同行し秀吉に謁見し、知行地に関する話し合いが持たれたと伝えられています。

戦国の世の終りの始まり

宮之城
宮之城

秀吉への協力は、献上品や各地への出兵など多岐に渡り、文禄の役では時久の嫡男 忠虎も朝鮮へ出兵します。ところが文禄3年(1595)3月、朝鮮の陣中で嫡男 忠虎は病没し、家督継承の問題が浮かび上がります。

 

忠虎の嫡男 忠能(長千代丸)はまだ5歳のため、時久の3男三久が、忠能が政務を取れるまで家督を代行することになりました。そして同時期に行われた太閤検地により、島津領内で大規模な領地替えが実施されることになるのでした。かつての領地を移転させられることになった国人達は豊臣親派と反発派に別れ、のちの大きな戦乱の要因になっていくのです。

 

北郷家は祁答院宮之城へ領地を移され、都城には豊臣親派の伊集院氏が入る事になりました。老齢の時久は孫の忠能と共に祁答院に入り都城を懐かしみながら、慶長元年(1596)2月この世を去ります。

大きな戦乱の予感が漂いながらも、時代は戦国の世の終りの始まりに向かおうとしていました。

ここまで