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先人たちが苦労の末生み出した歴史的遺産

観音瀬水路

高崎町縄瀬、高城町有水の河川の難所に造られた歴史ある水路

観音瀬の画像

観音瀬水路の由来

観音瀬の全体画像

この観音瀬を開削して赤江港に通ずる舟路を開こうと決意したのは、第22代都城領主島津久倫で、久倫はこの難工事を家臣藤崎五百治公寛に命じました。命を受けた公寛は、桂川(山梨県)や吉野川(徳島県)球磨川(熊本県)などの急流や難所を調査し、肥後(熊本県)の石工や船頭を伴って帰り、寛政3年(1791)藩主の許可をまって着工しました。
水量の少なくなった冬季の仕事で、激流や岩との闘いですから苦労は並大抵ではありませんでした。観音瀬左岸に幅一間(1.82m)の舟路の開削工事が竣工したのは、3年後の寛政6年12月のことでした。これによって、都城の竹之下橋から川口の赤江港までの間を川舟が通行するようになり、都城地方はもとより鹿児島方面の物産も運べるようになりました。
明治22年(1889)、県営工事で更に右岸に一間幅(1.8m)の水路開削が始まり、翌年の明治23年に完成し、ますます舟運は盛んになりました。これらの工事に肥後から来た石工たちがそのまま居着いたのが、ここ八久保地区です。しかし、陸上交通が発達してきた大正13年(1924)には、大淀川の水利権を取った電気工事株式会社が、ここに水力発電のための堰堤を造りました。

それから台風や大雨のたびに都城盆地は大被害を受け、激しい撤去運動が続きました。そして昭和37年(1962)下流の新設ダム完工と同時に轟ダムは撤去されました。こうして昔開削した舟路は再び出現したのです。

観音瀬は異なる時期に開削した2本の水路としては、他に類例がなく、川普請の技術の跡を伝える史跡として価値の高いものだと言われています。     

観音瀬水路

住所:宮崎県都城市高城町有水