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庄内三大用水路
庄内三大用水路

関之尾町を流れる庄内川から水を引いている、南前用水路、前田用水路、北前用水路のことを庄内三大用水路といいます。
それぞれの用水路には開発の歴史があります。
用水路の開発と開田
庄内川の関之尾滝上流には、堰のない用水路の取水口(くち)が3か所あります。それらの用水路は下流域の水田地帯に、安心して使える灌漑用水を送水し、おいしい米づくりに寄与しています。
用水路の開発は、現代のようにショベルやブレーカなどの建設機械はなく、全て人力で開発しました。用水路は、昔の人々が知恵を出し合い、水田を灌漑するために苦労して開発した歴史遺産です。3か所の用水路の開発には、共通する「開発の工法」があります。
南前用水路
都城島津家第18代島津久理(ひさみち)は、貞享2年(1685年)、家老の川上久隆(ひさたか)に用水路の開発を命じます。川上久隆は、関之尾滝の右岸に隧道(トンネル)を掘り下げる計画を立て、着手します。工事は大変な難工事でしたが、谷川に用水を落とす隧道が完成します。取水した水は、用水路から隧道に滝のように落ち、谷川に流れ落ちます。下流に「堰(せき)」を造り、庄内川の水が開田された水田の灌漑用水に利用されます。その後、用水路は、川崎、平田、乙房地区まで延長されます。(用水路の長さは7.2キロメートル)川上久隆は「出水神様」と崇められています。
前田用水路
西岳村から庄内村に移住した坂元源兵衛は、開田技術の継承者です。明治22年(1889年)、地区住民から用水路と開田の開発を要請されます。南前用水路の隧道工法を直に修得した坂元源兵衛は、南前用水路の取水口に近い対岸に、開削する取水口を決め、隧道工事に着手します。隧道は、鎚(つち)と鑿(のみ)を使っての難業で貫通します。併せて、用水路と開田の開発も行い、20町歩の開田に成功し、地域住民から感謝されます。
坂元源兵衛は、下流の、シラス台地の菓子野原(現都城市庄内町菓子野、千草辺り)までの用水路の開発を計画し、取り組みます。開発の途中、資金難に陥り、工事を中断します。この事業を鹿児島県出身の事業家である前田正名が譲り受けます。前田正名は、明治32年(1899年)~37年(1904年)の間、用水路と開田の開発に専念します。明治34年(1901年)2月、用水路が完成し、菓子野、谷頭原の開田も成功します。用水路は「前田用水路」と命名されます。(用水路の長さは7キロメートル)山田村に「前田君開渠紀功碑(まえだくんかいきょきこうひ)」が建立されます。
北前用水路
開田技術を継承している坂元源兵衛は、明治27年(1894年)、関之尾滝の上流、左岸の岩盤を掘削し、庄内川の水を取水する事業に取り組みます。岩盤を掘削している南前用水路の土木技術を導入します。鎚と鑿を使って岩盤に水路を掘る作業は、苦難が続きます。掘り割りが完成すると、用水路に水を流し、水を落とすと滝(女滝)のように庄内川の川岸に落ちます。川岸に取水口の工事を行い、既設の用水路に水を通します。取水に難儀していた住民から感謝されます。(用水路の長さは5.1キロメートル)





