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島津元丸殿差越され候に付布告(しまづもとまるどのさしこされそうろうにつきふこく)
明治2年(1869年)の版籍奉還(はんせきほうかん)に伴い、私領を返上した都城島津家領主島津久寛(ひさひろ:幼名元丸(もとまる))は、都城を離れ鹿児島に居を置きました。
代わって、鹿児島藩士三島通庸(みしまみちつね)が地頭として都城に赴きますが、都城の人々は、 通庸宅の門標(もんぴょう)を斬りつけるなど、激しい抵抗をみせました。また、旧家臣から久寛の地頭就任を要望する嘆願書も出されたことからも、当時の人々の思いをうかがい知ることができます。
都城を離れた久寛は、 「都城島津家日誌巻1」の明治5年(1872年)4月9日の条に記されているとおり、その後、都城を再び訪れています。
布告の中で、都城県の役人は、都城島津家への恩義を忘れていないことに加えて、都城の人々に対し、久寛が都城に来るときには通りを掃除するなど気を配り、出迎えるときには旧来のように会釈することなど、丁寧な対応を求めたことが記されています。