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島津発祥の地と中世

記事ID:0009104 更新日:2020年3月8日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

都城市は、「島津家発祥の地」といいますが、これはなぜでしょうか。

「島津」と聞くと、鹿児島というイメージですが、実は、都城と島津はとても深い関係があったのです。

文治(ぶんじ)元年(1185)3月、源頼朝(みなもとのよりとも)は、弟の義経(よしつね)らの力を借りて、壇の浦の合戦で平家を滅ぼし実権を握りました。

そこで、頼朝は同年8月、島津荘(しまづのしょう)の下司職(げすしき=荘園の管理人)に惟宗忠久(これむね ただひさ)を任命しました。その後、忠久は日向・大隅・薩摩3か国の守護と島津荘の地頭(じとう)となっていきました。

そして忠久は、自分が治める荘園の名前をとって島津忠久と名乗るようになったのです。これが、都城が「島津家発祥の地」といわれる理由なのです。

地頭となった忠久は、都城の祝吉(いわよし)に館を造って移り住んだと言われ、今もその跡地と伝えられる場所(祝吉御所)に顕彰碑が立てられています。

祝吉御所跡の図

祝吉御所跡の図の画像

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