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島津発祥の地と中世
都城市は、「島津家発祥の地」といいますが、これはなぜでしょうか。
「島津」と聞くと、鹿児島というイメージですが、実は、都城と島津はとても深い関係があったのです。
文治(ぶんじ)元年(1185)3月、源頼朝(みなもとのよりとも)は、弟の義経(よしつね)らの力を借りて、壇の浦の合戦で平家を滅ぼし実権を握りました。
そこで、頼朝は同年8月、島津荘(しまづのしょう)の下司職(げすしき=荘園の管理人)に惟宗忠久(これむね ただひさ)を任命しました。その後、忠久は日向・大隅・薩摩3か国の守護と島津荘の地頭(じとう)となっていきました。
そして忠久は、自分が治める荘園そして、地名でもあった「島津」の名称をとって島津忠久と名乗るようになったのです。これが「島津」姓の由来の地として、都城が「島津家発祥の地」といわれる理由なのです。
地頭となった忠久は、都城の祝吉(いわよし)に館を造って移り住んだと言われ、今もその跡地と伝えられる場所(祝吉御所)に顕彰碑が立てられています。