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高島所持荻野流拾匁筒之図(たかしましょじおぎのりゅうじゅうもんめつつのず)
この史料は、江戸後期の砲術家高島秋帆(たかしましゅうはん)が荻野流砲術を基に製作した十匁(じゅうもんめ・約38グラム)の弾丸を発射できる銃を、 天保10年(1839)5月に書き写したものです。
秋帆は、幕府の命を受け西洋流砲術演習を行うなど、日本随一の砲術家として知られ、国内で西洋砲術を取り入れた革新的な流派「高島流」の創始者です。
鹿児島藩では、稲富流(いなとみりゅう)や提要流(ていようりゅう)などの砲術が主流でしたが、江戸後期になると荻野流が広まり、藩内において砲術の西洋化が図られました。
都城でも、23代久統(ひさのり)までは稲富流、24代久本(ひさもと)は荻野流と高島流を学び、数多くの免許状が残されています。
この史料は、当時、都城に砲術の西洋化の波が押し寄せつつあったことを示す貴重な史料です。