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万(よろず)覚書(おぼえがき)
波図屏風の作者とされる財部盛陳は、都城島津家の家臣としても活躍した人物です。余りの絵のうまさに、他の狩野派門弟が嫉妬し、若くして毒殺されたという逸話があるほどの絵師でした。「庄内地理志 巻二十三」においては絵師と特に記され、後世においても絶賛される盛陳ですが、都城島津家に伝わる系図等にも記されていないことから、謎に包まれた存在でした。
都城島津家史料を調査したところ、わずかではありますが、都城島津家の家臣として働く財部盛陳の姿を発見しました。都城島津家の役人が書き残した日誌 「万(よろず)覚書(おぼえがき)」に、寛永17年(1640)12月25日、彼が都城島津家の必需品購入に関わる様子が記されています。このことから、「財部権兵衛」という名で主家の用務に携わっていたということが分かりました。
都城島津家の絵師達は、都城島津家の家臣として行政的な職務に従事しながら、屏風や絵図の作成を行っていたと推察されます。