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延宝2年8月3日付達書写(たっしがきうつし)
この史料は、17代当主島津忠長(ただなが)の夫人で、15代久直の娘である千代(ちよ)松(まつ)が死去したときに出されたものです。
千代松は北郷家の血筋の娘として、藩主光久の子久(ひさ)定(さだ)を夫として迎え16代領主としました。しかしほどなくして久定が死去したことから、新たに忠長を迎え、その妻となりました。
達書には、このたびの千代松の逝去については非常に残念であり、北郷家の家督については、島津市右衛門(18代久理(ひさみち))へ命じるので問題はないが、役人をはじめ家中皆々、諸事念を入れて隙の無いように政治を執り行うように、とあります。
千代松は、祖母である12代忠能の妻に養育されて政治的素養を得、当主が不在だった16年もの長い間都城領政を指揮したとみられます。領主の妻の死去について、あえて記すこうした書状は異例ともいえ、彼女の影響力をはっきりと表した貴重な史料といえます。