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西南戦争と都城島津家日誌
明治10年(1877年)、政府軍に対抗しきれず次第に勢力を弱めた西郷軍は、宮崎方面へ逃れ、都城を防御拠点と位置付け、村田新八(むらたしんぱち)を将として守りを固めました。
これを包囲した政府軍は、この年の7月24日に西郷軍を攻撃。この時すでに、西郷軍には対抗する力は無く、瞬く間に敗北しました。西南戦争には都城地域から1,600人が加わり、 150人余りが命を落としました。
多くの民家が焼かれた記録に加えて、都城市内では今でも、民家の柱に鉄砲の弾の跡が見られるなど、この闘いの傷跡を見ることができます。
このとき書かれた都城島津家日誌は、戦災の悲惨さを今に伝える貴重な史料です。