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大舘晴勝像(おおだてはるかつぞう)
大館家は、学術芸術の分野で代々優れた人物を輩出し、江戸時代初期から島津家に重用されていました。幕末の同家当主晴勝(はるかつ)も、連歌や和歌、儒学などに造詣(ぞうけい)が深く、都城島津家の二十四代領主久本(ひさもと)とその子久静(ひさなが))から重用され、物頭役(ものがしらやく)などの重職を務めました。
文久(ぶんきゅう)2年(1862年)、幕府へ政治的介入をもくろんだ薩摩藩が江戸へ出兵し、都城島津家も出兵を命じられます。久静は晴勝ら数名を随行させ、京都や大坂(現在の大阪)の情勢を報告させました。このことから、晴勝が政治的・戦略的にも重要な人物であったことをうかがい知ることができます。
晴勝は尊王攘夷(そんのうじょうい)の意志が強かったために、藩から謹慎を命じられますが、その後、都城領の学校・明道館(めいどうかん)の学頭として後進の指導に当たりました。
晴勝の目指した教育は、明治期における若者たちの思想形成に大きな影響を与えました。