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コラム1 島津忠久(しまづただひさ)の都城下向(みやこのじょうげこう)
源頼朝(みなもとのよりとも)から島津荘の地頭職、薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護職(しゅごしき)に任命された惟宗(これむね)忠久(ただひさ)。彼はやがて南九州へ下向して、この都城にしかなかった地名「島津」を名字としたとされています。これが島津氏発祥の由縁となっています。
ただし、忠久は当時本当に都城へやってきたのでしょうか?
鎌倉時代作成の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、正治(しょうち)2年(1200)以降、忠久は将軍に従い鶴岡八幡宮に参詣するなど、鎌倉において様々な役目を度々担っています。加えて、陰陽(おんみょう)の役目も担っていたようです。このような状況で鎌倉から都城へ赴くことは難しいと思われます。それでも、忠久が日本最大級の島津荘の地名を名字とし、南九州三ヶ国に強大な権限を有していたことは、のちの島津氏にとっては、重要なことであったのです。