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初代 北郷資忠(ほんごうすけただ) 生没年不詳
北郷資忠は、室町時代前期に活躍した島津本家4代当主である島津忠宗(ただむね)(1251~1325)の6男。忠宗には7人の男子がいて、長男貞久(さだひさ)が本家の家督を継ぎ、6人の兄弟達も恩賞として各地の地頭に任ぜられます。次男忠氏(ただうじ)は和泉(いずみ)氏、3男忠光(ただみつ)は佐多(さた)氏、4男時久は新納(にいろ)氏、5男資久(すけひさ)は樺山(かばやま)氏、6男資忠は北郷氏、7男久泰(ひさやす)は石坂(いしざか)氏を興し、南九州の各地での支配を強めて行くことになり、後に「七人島津」と呼ばれる礎(いしずえ)となりました。南北朝時代に入ると資忠は、北朝の足利尊氏方に島津本家と共に加わり、「筑前国金隈合戦(ちくぜんのくにかねのくまかっせん)」の功により、1352(文和元)年、「北郷300町」を足利将軍家より与えられました。
居城を「薩摩迫(さつまざこ)」(都城市山田町)に定め、地名を取って名字を「北郷」に改め、北郷家(後の都城島津家)の歴史がスタートするのです。
資忠の没年は不明ですが、命日は9月20日とされており、今も山久院跡(さんきゅういんあと)(都城市庄内町)に夫妻の墓がひっそりとたたずんでいます。