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2代 北郷義久(ほんごうよしひさ) 生没年不詳

記事ID:36603 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

北郷資忠(ほんごうすけただ)の長男。母は宮丸道時(みやまるみちとき)の娘。元服を機に義久を名乗り、父資忠と共に南九州各地で戦いました。永和(えいわ)元年(1375)、島津荘南郷(都城市都島町)の太古より神武天皇の宮跡があったと伝えられる場所に城を築き、これを「都之城(みやこのじょう)」と名付けたと伝えられます。この城の名前が現在も続く「都城」と言う地名の起こりです。

都城盆地を眼前に見下ろす城を手に入れた義久ですが、中央では北朝と南朝を隔てた2つの朝廷が激しく対立し、それに伴って周辺地域もいまだに大小の豪族の小競り合いが続く時代でした。義久もこの戦乱の中で今川軍と戦い、弟の基忠と忠宣が戦死、自らも重傷を負うなどしますが、これを破りました(蓑原の戦い)。しかし、それからも今川方との戦いは続き、義久は晩年まで戦いに明け暮れたのです。

義久には6男があり、兄2人は出家し、生前に3男 久秀に家督を譲りました。墓は釣璜院跡(ちょうこういんあと)(都城市庄内町)に現在もあって、静かにたたずんでいます。享年64歳。法号は無塵道端居士。

北郷義久の墓(釣こう院跡)

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