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3代 北郷久秀(ほんごうひさひで) 出生不詳~1394

記事ID:36604 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

北郷久秀は北郷義久(ほんごうよしひさ)の3男。兄2人が出家したため、家督を相続しました。母は和田正覚の娘。

14世紀の末の南北朝時代、今川氏と島津氏との争いがあり、それは南北朝合一(1392年)後も続きました。応永(おうえい)元年(1394)年2月、今川貞兼(いまがわさだかね)・相良前頼(さがらさきより)の大軍の前に、久秀の外祖父であった和田氏と高木氏が守る梶山城(北諸県郡三股町)が落城。久秀は、弟の忠通と共に梶山城に向かい、今川・相良軍と戦いましたが、同年2月17日、激戦の中、弟忠通が戦死、そして久秀も同年3月17日、重傷を負って石に腰かけたまま絶命したといいます。この悲報を聞いた島津本家元久(もとひさ)は、ただちに今川追討の軍を起こし、梶山城を急襲し、今川・相良軍を破りました(樺山城の戦い)。

久秀の墓所は大昌寺跡(だいしょうじあと)(三股町梶山)にあります。法号は薦福寺殿日山妙旦大禅定門。

北郷久秀の墓

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