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4代 北郷知久(ほんごうともひさ) 生没年不詳
北郷義久(ほんごうよしひさ)の5男。母は和田正覚の娘。長男と次男は既に出家し、3代当主を継いだ3男久秀と4男忠通が戦死したことから、仏門に入っていた5男知久が北郷家を継ぐこととなりました。知久は、4男忠通の娘を妻として北郷家の4代当主となり、その後ろ盾として、島津本家7代元久(もとひさ)が烏帽子親(えぼしおや)(元服の後見人)をつとめました。
応永(おうえい)2年(1395)、今川貞世(いまがわさだよ)(了俊)の九州探題(きゅうしゅうたんだい)解任をもって今川軍との戦乱は終結、知久はその後も都城にありながら島津元久を助け各地の戦いに奔走しました。そして応永16年(1409)、今川貞世の役職罷免をもって、薩摩・大隅の守護職(しゅごしき)が島津本家に戻り、島津氏の宿願であった薩摩・大隅・日向三国の守護職に復帰したのです。翌年、元久が足利4代将軍義持(よしもち)へお礼まいりのため上京した時、多くの島津氏一族ともに知久もこれに従い将軍に拝謁しています。元久の死後も次代当主島津久豊(ひさとよ)を援助し、島津本家の家督争いの収束に尽力しました。
知久は年号不詳7月1日、64歳でこの世を去ります。法号を天岩融善居士。墓所は釣璜院跡(ちょうこういんあと)(都城市庄内町)。