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5代 北郷持久(ほんごうもちひさ) 1409~1470

記事ID:36608 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

北郷知久(ほんごうともひさ)の長男。母は北郷忠通の娘。

父知久から家督を継いだ持久の時代は、島津本家内の権力争いや各地の武装勢力との戦いに明け暮れました。

永享(えいきょう)9年(1437)、足利将軍就任をめぐって6代将軍義教(よしのり)にくじで敗れた義昭(ぎしょう)が、出家先の大覚寺から出奔し、大覚寺で近習(世話係)を務めていた源澄(げんちょう)の実家・庄内中郷(都城市梅北町)の鬼束(おにつか)氏の元にかくまわれていました。しかし、嘉吉(かきつ)元年(1441)年3月、その時に潜伏していた櫛間永徳寺(くしまえいとくじ)(宮崎県串間市)が包囲され、義昭は自害しました。持久は、義昭をかくまっていたという過去の責任が問われ、事態を重く見た島津本家忠国(ただくに)は、持久から都之城を没収し、三俣院(みまたいん)高城へ閉居させることで持久の助命を図りました。持久は高城で13 年程謹慎ののち、寛正(かんしょう)6年(1465)これを許され、庄内の薩摩迫(さつまざこ)へ移り、応仁(おうにん)2年(1468)に嫡男敏久(としひさ)とともに安永城(やすながじょう)を築き居城としますが、持久の存命中には、ついに都城への復帰はかなわず、文明2年(1470)に亡くなりました。享年62歳。法号を福持庵殿無極道悦居士。墓所は釣璜院跡(ちょうこういんあと)(都城市庄内町)。

北郷持久の墓

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