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6代 北郷敏久(ほんごうとしひさ) 1430~1500

記事ID:36611 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

北郷持久(ほんごうもちひさ)の長男。母は和田匡盛の娘。

大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)事件に連座して、父持久と共に三俣院(みまたいん)高城・薩摩迫(さつまざこ)にて過ごした後、応仁(おうにん)2年(1468)年に安永城(やすながじょう)(都城市庄内町)を築城しました。そして文明8年(1476)年6月21日に島津本家10代当主立久(たつひさ)の命により旧領都城を回復、安永城から都之城へと移りました。

都城に復帰後は、荒れ果てていた社寺や祖先の霊廟の修復に、一族をあげて取り組んだと伝えられています。

文明17年(1485)年、島津氏一族である伊作家(いざくけ)の島津久逸(ひさやす)が、伊東祐国(すけくに)・北原氏と共謀して島津本家に謀反を起こします。同年6月、敏久は島津忠昌(ただまさ)が出軍した時、先陣を務め、精鋭2,800名を率いて各地で奮戦しました。敏久は連戦連勝し、伊東祐国を討ち取るなど大いに活躍、忠昌から中郷300町を与えられたといいます。明応(めいおう)9年(1500)年1月21日、敏久はこの世を去ります。享年71歳、法号は二厳寺殿歓翁道喜大禅定門。墓所は西明寺跡(さいみょうじあと)(都城市都島町)。

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