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8代 北郷忠相(ほんごうただすけ) 1487~1559

記事ID:36613 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

北郷数久(ほんごうかずひさ)の長男。母は島津豊州家(ほうしゅうけ)季久(すえひさ)の娘。

忠相は都城盆地統一をなし遂げた人物として、都城中興の祖と呼ばれ、都城島津家の中でも最も顕彰されています。

忠相が父の跡を継いだ永正14年(1517)当時、北郷氏が治めていたのは、都城・安永城・山田城の3城に過ぎず、周囲には伊東氏・北原氏・新納氏(にいろし)といった力のある武将が割拠していました。こうした状況の中で、忠相は都城盆地の統一に乗り出し、大永(だいえい)~天文(てんぶん)年間(1521~55)に周囲の領主たちと戦い、ついに都城盆地を平定しました。

同じ頃、島津本家では守護継承をめぐって争いが起きていました。天文年間(1532~55)に大隅半島で力を持った忠相は、守護継承を認める立場をとり、天文14年(1545)には島津一門の者たちと共に島津貴久(たかひさ)を守護と認めています。天文21年(1552)には、島津貴久が一族である忠相、忠親(ただちか)親子らと、今後も協力していくという契約を結び、北郷家は島津家と対等の立場でありながら、共に行動する「御一家」として位置づけられました。

都城盆地の平定に向けて数々の戦いを終えた忠相は、社寺の復興や数々の戦いで生命を落とした家臣のみならず、敵方の武将や兵卒を弔うための供養塔を多く建立しています。

忠相は、永禄2年(1559)年11月16日、忠相は日向国三俣院高城にて73歳の生涯を閉じました。法号を龍峯寺仙厳浄永大禅定門。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

忠相着用の鉄錆地南蛮胴具足

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