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9代 北郷忠親(ほんごうただちか) 1505~1571

記事ID:36614 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

北郷忠相(ただすけ)の長男。母は島津忠廉(ただかど)の娘。

父忠相と共に都城盆地統一に向けて各地において奮戦し、高城に移った忠相に代わって都之城を守りました。

北郷家の都城盆地統一後、矛先を変えた伊東義祐(よしすけ)は、飫肥の島津豊州家・忠広の領土を執拗に狙うようになりました。

父忠相の盟友であった島津忠朝(ただとも)の後を継いだ飫肥の忠広は病弱で子が無く、従兄弟の子賀久を養子にしますが、豊州家の本城である飫肥にせまる伊東氏との戦いの中で、病を得て命を落としてしまいます。天文15年(1546)、忠広は、忠相と島津本家貴久に、忠親を養子として迎えたいとの旨を言上し許可を得ました。

初め忠親はこれを固辞しますが、伊東氏との戦いに疲弊する島津豊州家の要請に応えて養子となり、飫肥に赴きました。その後20年を超える伊東氏との抗争に奔走し、島津本家から忠平(後の島津義弘)を忠親の養子として迎えるなどして手を尽くしますが、島津豊州家は本領を失い、忠親は都城に戻りました。その後、元亀(げんき)2年(1571)6月12日に都城にて没しました。享年67歳。法号を天香寺殿齢崗永寿居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

北郷忠親の墓(都島町 都城島津家墓地)

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