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10代 北郷時久(ほんごうときひさ) 1530~1596

記事ID:36615 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

9代忠親(ただちか)の長男。母は根占大和守尊重(ねじめやまとのかみたかしげ)の娘。

父忠親が島津豊州家(ほうしゅうけ)を継いだことから、天文15年(1546)2月、北郷家の家督を相続しました。祖父忠相(ただすけ)が都城盆地を統一して以後、時久の時代には支配領域が最大となり、行政組織も整備されていきました。

時久の父忠親は、飫肥をめぐって伊東氏との戦いを繰り広げますが、時久もたびたび軍を送りこれを支援しています。その後、島津本家は元亀(げんき)3年(1572)5月の「木崎原合戦(きさきばるかっせん)」、天正(てんしょう)6年(1578)3月~9月の「耳川(みみかわ)の合戦」で大友・伊東氏との戦いに勝利しますが、時久も参戦して活躍しました。

当時、島津本家との関係も良好で、天正7年(1579)12月には当主であった島津義久から、従来の所領を安堵され、今後、獲得した領地を保障することを約束されています。

しかし、天正15年(1587)5月8日、豊臣秀吉の九州進出に伴って島津氏は降伏、やや遅れて時久も降伏しました。時久は秀吉から旧領地の支配をそのまま保障されますが、秀吉は時久に人質2人を出すことで認めたのでした。このことは、同年5月に秀吉から島津義弘にあてた朱印状に記されています。秀吉の要求に従って、時久は自らの子である三久(みつひさ)と忠頼(ただより)を人質として差し出し、豊臣政権から旧領地を安堵されました。

文禄4年(1595)8月、時久は文禄検地後に祁答院(けどういん)宮之城(薩摩郡さつま町)に移封され、慶長(けいちょう)元年(1596)2月3日、宮之城で死去しました。享年67歳、墓は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。法号は龍峯寺殿月庭梁新庵主。

北郷時久の墓

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