本文
11代 北郷忠虎(ほんごうただとら) 1556~1594
北郷時久の次男。母は本田董親の娘。
天正7年(1579)、嫡男相久(すけひさ)が突如謀反を疑われ、時久は軍勢を安永金石城(やすながかねいしじょう)へ差し向け、相久は時久の軍勢に抗う事なく自害して果てたことから、次男の忠虎が家督を相続することになりました。
なお、相久の事件は様々な理由が語られ、彼の霊が現れたという噂や怪異が続発したといいます。天正9年(1581)、相久の霊を弔うために時久が都島に建立したのが「若宮八幡宮」で、以後、霊八幡宮・兼喜(けんき)大明神・兼喜神社と名を変えつつ、現在に至っています。
忠虎は、父の時久や島津義弘らと共に耳川の合戦等に参加し、軍功を重ねました。豊臣秀吉の九州征伐の際は、時久と共に最後まで抵抗を試みましたが、本家の命により降伏しています。
その後、秀吉による佐々成政(さっさなりまさ)征伐・肥後国一揆の鎮圧に参加、文禄の役にも加わり朝鮮へ渡りました。しかし、文禄3年(1594)12月14日、朝鮮において病のため死去。翌年の正月に都城十念寺に葬られました。
享年39歳。法号を天清寺殿天室常清居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。