ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 都城市トップページ > 分類でさがす > 文化・スポーツ > 歴史 > 都城島津邸 > 都城島津邸 > 所蔵史料 > 都城島津家の人物紹介 > 12代 北郷忠能(ほんごうただよし) 1590~1631

本文

12代 北郷忠能(ほんごうただよし) 1590~1631

記事ID:36617 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

北郷忠虎(ほんごうただとら)の長男。母は野辺盛忍の娘。

文禄3年(1594)12月14日、父忠虎が朝鮮において病のため亡くなりました。翌年、豊臣秀吉による文禄検地後に、いったんは安堵されていた都城から領地替えを命じられ、祖父時久と共に祁答院(けどういん)(鹿児島県薩摩川内市・薩摩郡さつま町の一部)に移りました。そしてその後、忠能は慶長(けいちょう)4年(1599)、わずか10歳で家督を継ぎました。

同年、伊集院忠棟(いしゅういんただむね)を島津忠恒(ただつね)(後の藩主家久)が殺害したのをきっかけに、忠棟の子忠真(ただざね)が島津家に反旗を翻した庄内の乱が起こり、後見人の叔父北郷三久(みつひさ)と共に東霧島(つまきりしま)神社(じんじゃ)(都城市高崎町)の本営に着陣、参戦しました。忠能はその戦功によって旧領都城に復帰することになりました。

関ヶ原の合戦では都城を守備し、大坂夏の陣にも従軍しました。1615(元和元)年に江戸幕府の命によって城を降り、現在の都城市役所一帯に領主館を建設、それを中心に新たな町場を築きました。

島津本家の史料によれば、晩年は讒言により北郷家重臣を殺害したとも伝えられています。

寛永8年(1631)に死去、享年42歳。法号を剛岳常金居士。墓所は二巌寺跡(にごんじあと)(都城市鷹尾1丁目)。

北郷忠能の墓

みなさんの声を聞かせてください

このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?