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14代 北郷忠亮(ほんごうただすけ) 1614~1634
北郷忠能(ただよし)の次男。母は島津征久(ゆきひさ)(後の以久)の娘。
寛永元年(1624)に兄翁久(おきひさ)と共に鹿児島で元服。寛永8年(1631)2月に父忠能が死去すると、忠亮が家督を継ぐにあたって、3月28日に藩主島津家久より教訓書が送られています。生前の忠能の行いを指摘し、北郷家が存続するために忠能時代のあり方を改め、今後家中の者に死罪、あるいは知行没収などの沙汰を行うときは、事前に鹿児島へ報告を行った上で行うことと、これからは鹿児島屋敷に移って、世情の様子を見習うことを命じています。そして家久は、忠能時代の家老であった北郷久俊とその一族を処罰する等、厳しい態度をとりました。これに対し忠亮は、新しく家老職に就いた北郷久根や北郷久永の力を借りて領地を治めることとなりました。
寛永10年(1633)11月、島津本家の人質として江戸に赴きますが、翌年2月、同地にて病のため死去しました。享年21歳。法号を大巌正廣居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。