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18代 島津久理(しまづひさみち) 1657~1727

記事ID:0036630 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

鹿児島藩主島津光久の8男。母は玉利喜右衛門の娘。初めは忠顕(ただあき)、忠智と称しました。

兄忠長(ただなが)が就任7年で死去し、彼に子どもがいなかったことにより、寛文11年(1671)、都城島津家に入り家督を相続しました。家督相続時は若年のため、しばらく藩の家老も務めた島津久元や島津久馮が後見したといいます。

延宝3年(1675)12月、都城・飫肥との山境争論が起き、伊東家飫肥藩、さらに幕府を巻き込んでの訴訟となりました。この時は飫肥藩側の主張が認められ、島津家は敗訴しています。

延宝6年(1678)に武具甲冑の新調または修理を行い軍備増強に努め、天和元年(1681)には、家臣の隊伍(兵士の組織)を定め組頭・小組頭等を置き、組掟を定める等、その後の領内統治の規範を築きました。元禄13年(1700)に隠居し、嫡男久龍に家督を譲りました。

享保12年(1727)正月28日に死去。享年71歳。法号を瑞峯院殿義雲玄道大居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

島津久理像

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