本文
22代 島津久倫(しまづひさとも) 1759~1821
島津久茂(ひさもち)の2男。母は石坂氏章の娘。
宝暦9年(1759)6月26日に生まれ、兄の21代久般(ひさとし)が就任4年目に19歳で早世したために、わずか3歳で家督を相続しました。
彼は都城島津家の中でも「明君」といわれる人物です。当時、度重なる災害等による飢饉によって、都城島津家では財政が悪化、また人々の風紀の乱れが目立つなど、領内秩序に緩みが見られるようになっていました。それに対処するために久倫は、8代北郷忠相を模範として数々の施策を実施しました。
まず、安永7年(1778)に後の学校「明道館(めいどうかん)」につながる「稽古所(けいこじょ)」を、安永9年(1780)7月には武道を学ぶ施設「講武館(こうぶかん)」を設置し、翌月には家臣に兵学を学ぶよう指示しました。続いて天明元年(1781)、領内をあげて実施する諏訪神社祭礼を復興し、寛政3年(1791)に大淀川の河川改修工事である観音瀬(かんのんぜ)の開削事業を実施しました。そして寛政10年(1798)9月3日、一大文化事業である『庄内地理志』の編さんを開始しました。このほか久倫は、寛政元年(1789)頃から、家臣を京都や江戸に留学させて人材育成にも努めました。
文政4年(1821)8月に亡くなりました。享年63歳。法号を泰光院殿功山義融大居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。