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23代 島津久統(しまづひさのり) 1781~1834

記事ID:36635 更新日:2021年6月4日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

島津久倫(ひさとも)の長男。母は島津久亮の娘。久統は安永10年(1781)年2月14日生まれで、文政2年(1819)に家督を継ぎました。

家臣の学問・武芸鍛錬を奨励するだけでなく、前家老の安山松巌を大和河内(奈良県と大阪府の一部)や肥後(熊本県)に派遣し、養蚕業や綿栽培を取り入れ領内の殖産興業を図りました。また格式にとらわれず、有能な人物の登用に努め、大河原世則・志摩清右衛門・荒川儀一らを頼山陽や佐藤一斎といった当代一流の儒学者に入門させました。

『庄内地理志』は父久倫の代に開始され、久統が領主の時に一応の完成をみました。およそ30年の歳月をかけて作られた近世の都城島津家における一大文化事業であり、島津久倫と久統、そして実質担当者の荒川儀方が『庄内地理志』編さんを支えた人物でした。

久統は家督継承以前から『麑藩名勝考(げいはんめいしょうこう)』の著者である白尾国柱(しらおくにはしら)と親交があり、白尾の地位を利用して藩官庫の史料を久統自身で書写しています。また家臣志摩清右衛門を京都へ派遣して、漢学を田中大蔵に、さらに大河原世則を頼山陽の門下として学ばせています。このように、久倫・久統ともに家臣に対して学問、とくに儒学を奨励し、人材の育成に努めたのでした。こうした姿勢・思想が『庄内地理志』編さんの環境を整えていったといえます。

病を得て鹿児島にて死去。享年54歳。法号を仁量院殿智鑑達道大居士。墓所は龍峯寺跡(都城市都島町)。

島津久統像

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