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24代 島津久本(しまづひさもと) 1803~1868
島津久統(ひさのり)の長男。母は日置領主島津久陳の娘。天保5年(1834)に父の死去に伴い家督を相続しました。
久本が領主の時代は、全国的な飢饉で幕府による天保の改革が実施され、藩領内においても調所広郷の財政改革が行われ、さらに島津斉彬が藩主に就任し、西洋列強に対抗すべく、集成館事業を実施していました。久本はこうした事態に応じて、領内体制及び軍備の強化に取り組んでいきました。天保7年(1836)には家臣に西洋砲術を会得させ、同12年(1841)に野戦砲の製造、弘化4年(1847)には西洋剣銃の製造にも成功しました。嘉永7年(1854)には斉彬から「東目海岸防禦総頭取(ひがしめかいがんぼうぎょそうとうどり)」に任命されました。
このほか、嘉永2年(1849)に、長崎で牛痘接種を学んだ鹿児島藩士前田杏斉を都城に招いて領民に牛痘を接種し、連歌研究、陶器の製造と振興、人参や甘藷栽培の奨励等の農政改革も積極的に行いました。
安政3年(1856)、久本は家督を長男久静に譲りますが、文久2年(1862)に京都で久静が京都で急逝したために、わずか4歳で家督を継いだ久寛の後見役として活躍しました。
明治元年(1868)9月13日都城にて死去。享年66歳。法号を豊徳院殿薫山海量大居士。墓所は龍峯寺跡(都城市都島町)。