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25代 島津久静(しまづひさなが) 1832~1862
島津久本(ひさもと)の長男。母は黒木領主島津久長の娘。安政3年(1856)6月に父久本から家督を相続しました。
彼は鹿児島藩の国父島津久光の娘於治(おはる)(於貞、栄松院)を妻に迎えていたことから、久光の信任も厚く、父の代からの「東目海岸防禦総頭取(ひがしめかいがんぼうぎょそうとうどり)」に任命されるなど藩の重要な役目を担っていました。
安政6年(1859)4月には藩主忠義の名代として江戸へ登り、将軍徳川家茂への拝謝使を務め、さらに鹿児島調練場での歩兵訓練では統括を担うなどしました。こうした実績から、久静は兵を率いて上京する久光の命により、文久2年(1862)5月19日、兵200人(300人ともいわれる)を率いて京都へ入りました。翌20日には京都の鹿児島藩邸で久光と面談し、京都と朝廷の警備を命じられました。久静自身は京都出兵について久光から命令が来るであろうことを予想して、文久2年(1862)3月に家臣の大館晴勝(おおだてはるかつ)・木幡栄周(こはたえいしゅう)らを久光本隊に随行させ、京都・大坂の情報収集に努めていました。
大名でもない久静の京都出兵は前代未聞のことであり、久静は京都に着いてわずか1週間で麻疹のため亡くなりましたが、家臣はその任務を成し遂げたことから、京都でも注目が集まり評判も高まりました。この経験が、後の戊辰戦争時における都城島津家の軍事行動に大いに役立つことになったのです。
文久2年(1862)5月26日京都で死去。享年31歳。法号を高顕院殿傑心大居士。墓所は龍峯寺跡(都城市都島町)。