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26代 島津久寛(しまづひさひろ) 1859~1884
島津久静(ひさなが)の長男。母は国父島津久光の娘於治(おはる)(於貞、栄松院)。文久2年(1862)5月に父久静が京都で急逝したために、わずか4歳で家督を相続しました。
久寛は幼名を元丸といい、家督を継いだ時が4歳であったことから、祖父久本が後見人となりました。江戸時代最後の領主であり、明治2年(1869)8月に領地都城を藩に返上しています。都城に地頭として三島通庸(みしまみちつね)が派遣された後に、北郷伴兵衛や北郷清兵衛など旧都城島津家の家老級の武士9名は、都城の地頭に領主であった元丸を都城地頭に任命してほしいとした嘆願しています。彼らの主張は元祖資忠以来500年にわたる家臣であることから都城の地を領主また自分たちが離れることは忍びがたい。元丸が幼少であることは、その後見を維新政府の人選に委ねるとしているというものでした。
久寛は、一時鹿児島に移住しましたが、明治12年(1879)4月都城に復帰し、早鈴大明神の跡地に邸宅を築きました。
明治17年(1884)2月23日に都城で死去。享年26歳。法号を恭徳久寛主命。墓所は龍峯寺跡(都城市都島町)。