本文
27代 島津久家(しまづひさいえ) 1877~1922
24代久本の6男で北郷家へ養子に行った久政(ひさまさ)の長男。
26代久寛が明治17年(1884)に26歳の若さで亡くなり、久寛に子どもがいなかったことから、4月10日に家督を相続しました。久家は明治24年(1891)12月28日に久寛の功績によって男爵の爵位をうけ華族に列せられました。
久家は陸軍の軍人で、明治34年(1901)に陸軍歩兵少尉となっていますが、その前後にフランスに2度留学しています。また、日露戦争にも従軍し、後に正4位勲4等に叙せられ歩兵少佐となりました。
大正元年(1912)12月、久家自身および子孫が永遠に守るべきことを都城島津家の「家範」として定め、その中で、旧領主として都城の人々に対する接し方や家に伝わる古文書等について大切に保存することを説いています。
そして家範の「旧領都城人士に対シ永ク交誼ヲ保持センコトヲ期スベシ」に基づいて、久家は「都洲島津奨学金」を創設し、地域の人材育成、発展に努めました。
大正11年(1922)1月19日、近衛師団奉職中、病気で東京にて死去。享年46歳。墓所は龍峯寺跡(都城市都島町)。