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コラム12 都城領主としての務め
都城島津家は、藩主の代わりに徳川将軍家に直接お礼を述べたり、藩主より、藩の代表(人質)として江戸に長期間滞在を命じられるなど、重要な務めを果たしていました。その1例が御礼使(おれいし)の役目です。
文化9年(1812)、徳川将軍家から鷹を拝領した鹿児島藩主島津斉興(なりおき)は、23代島津久統(ひさのり)に対しその御礼の使者として江戸へ向かうことを命じました。久統は都城の家臣68名を引き連れ、2月1日に鹿児島を出発して、3月7日に江戸芝の鹿児島藩邸に到着し、11日に斉興の父斉宣(なりのぶ)、祖父重豪(しげひで)へ報告したのち、将軍や老中等重臣たちに御礼を申し上げ役目を果たしました。
この御礼使という役目は、藩を代表したものであったため、行列の人員や道中の費用等、藩主と同程度の規模で実施したと考えられます。都城島津家にとっては、名誉な役割であった一方、莫大な費用がのしかかり、家政を圧迫する大変なものだったのです。