本文
コラム16 最後の養子・島津久理
都城島津家では14代忠亮(ただすけ)以後男子がおらず、島津本家から相次いで養子が入ることになりました。最後の4人目が18代久理(ひさみち)でした。久理は藩主光久の8男として生まれ、養子として都城島津家に入り、寛文11年(1671)から元禄13年(1700)まで、領主の地位にありました。
17代忠長(ただなが)のとき、島津本家が島津の姓を名乗ることを命じたため、北郷家を改めて都城島津家となったのです。ただし、藩内外に対して都城島津家の家格を知らしめたのは、この久理と19代久龍(ひさたつ)の時代でした。久理は、本家から最後の養子として入ってきながら、北郷家が都城島津家として存続していく道筋をつくった重要な人物だったのです。