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島津久倫(ひさとも)像
島津久倫は、二十一代久般(ひさとし)が19歳で亡くなったため、11歳という若さで二十二代領主となりました。
その頃の都城島津氏領は、度重なる災害などにより、借金が膨らんでいました。そこで、久倫は、財政状況の改善と経済の活性化を目的に、観音瀬(かんのんぜ)(高城町有水、高崎町縄瀬)の大規模改修を行いました。当時の大淀川は、観音瀬から去川(さるかわ)(宮崎市高岡町)の間が急流で大きな岩が多く、水運の妨げとなっていました。そこで、都城から宮崎まで、船で通れるように改修することを考えたのです。
また、久倫は、安永7年(1778)に後の明道館となる稽古所(けいこじょ)を、安永9年(1780)には、武道を学ぶ講武館を設置し、文武両道を奨励しました。
姿勢よく正座したこの肖像画には、多くの事業を成功させた領主の威厳に満ちた姿が描かれています。