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堀之内御所跡之図(ほりのうちごしょあとのず)

記事ID:4684 更新日:2019年10月29日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

堀之内御所跡之図

この絵図は、都城島津家の初代当主である島津忠久(ただひさ)が、鎌倉から移り住んだとされる安久町の堀之内御所の跡を描いたものです。

同じ言い伝えを持つ場所として祝吉御所があり、これら2つの場所には「島津家発祥」にゆかりのある土地として石碑が建てられています。

島津荘(しまづのしょう)は、「島津」と呼ばれていた現在の都城市郡元町を中心に平季基(たいらすえもと)が開発して、藤原頼通(ふじわらのよりみち)に寄進したことにより成立。その後、日本最大級の荘園と呼ばれるほどに拡大しました。

源平の合戦後、その荘園の管理を源頼朝から任されたのが惟宗忠久(これむねただひさ)でした。彼はその荘園の名をとって「島津忠久」と名乗るようになり、現在も続く島津本家が誕生しました。

鹿児島藩が編さんした「三国名勝図会」には、忠久は初め堀之内に御所を構え、その後、祝吉に移ったと記されています。

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