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都城島津伝承館特別展 展示史料解説(後期分)

記事ID:58611 更新日:2023年11月7日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

前期展示史料解説

次の一覧から、解説を読みたい史料を選択ください。

English version is here.

1 都城島津家と島津荘 ~近世における「島津発祥」に対する意識

2 島津荘の荘域と構造

3 島津荘の立荘と拡大

4 島津氏と島津荘

5 おわりに

史料解説

1 都城島津家と島津荘 ~近世における「島津発祥」に対する意識

1-1 三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)巻二十

  • 員数:1冊
  • 縦:26.5cm、横:19.2cm
  • 明治時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

鹿児島藩が天保14年(1843)に完成させた地誌。60巻20冊からなる。編さん総裁・副総裁を橋口兼古・兼柄、五代秀尭・友古等が務めた。鹿児島藩地誌編さんの集大成といえるものである。 

この第20冊に「島津御荘」の標題を掲げて、島津荘の立荘や領主、平季基による開発と摂関家への寄進、一円荘と寄郡の混在形態など、あらゆることを詳細に記している。江戸時代における島津荘に対する考え方がうかがえる興味深い資料といえる。

1-2 庄内地理志 凡例二(庄内称号)

  • 員数:1冊
  • 縦:23.7cm、横:16.2cm
  • 大正・昭和時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

「庄内地理志」は都城島津家が独自に編さんした地誌。112巻と拾遺1巻の計113巻からなり、都城の風土・名所・旧跡・土産・由来・政治機構について記され、また都城に残されていた古文書・古記録・系図・社寺縁起・棟札・石塔なども網羅されている。この冊子の中に、「庄内郷村境分之図」が収載されている。江戸期における都城島津家領の12城及び行政区分が図化されている。この中に安久村及び郡元村に各々「忠久公御処」と記されており、近世における御所跡に対する認識をうかがうことができる。

1-3 庄内地理志 巻十(郡元 凡例 祝吉)

  • 員数:1冊
  • 縦:25.0cm、横:16.5cm
  • 大正・昭和時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

「祝吉之御所」の項には、初代忠久が建久7年(1196)8月に薩摩国山門院に下着、それから島津荘南郷の堀之内にて御所を建てて以後、祝吉御所に移ったとある。この地に産神稲荷神社が建久8年9月7日に創建されており、祝吉御所はそれより早く建てられたはずであるとして、建久8年8月頃に建てられたと推測している。

2 島津荘の荘域と構造

2-6 日向国図田帳案​

  • 員数:1通
  • 縦:15.4cm、横:462.9cm
  • 鎌倉時代
  • 東京大学史料編纂所所蔵
  • 後期展示

図田帳は鎌倉時代に一国ごとに作成された、国衙・荘園ごとの田地面積・領有関係を記載しまとめたもの。これをもとにして、国家は各々へ課役(年貢や雑役)を求めた。時代が古く、完全な形で伝わってきたのは、建久8年(1197)の日向・大隅・薩摩国の各図田帳である。それでも源平の争乱によって失われ、再作成された。

2-7 郡元・早水地区遺跡群出土資料

  • 員数:1式
  • 平安~鎌倉時代
  • 都城市文化財課所蔵
  • 全期展示

郡元・早水地区遺跡は都城盆地の中央部、沖水川左岸に広がる開析扇状地にあり、島津院の推定地となっている。扇状地上には幾筋もの旧河道と考えられる凹地帯が形成され、その周辺では多数の中世遺跡が確認されている。これらの遺跡群は、島津荘が拡大する11世紀後半頃から始まり、12世紀から14世紀にかけて一帯に展開していく。

郡元西原遺跡は、11世紀後半から12世紀にかけて形成された、幅4mを超える大型溝状遺構に区画された50m四方の居館跡と考えられ、島津荘の現地経営拠点の可能性も指摘される。

松原地区遺跡は、12世紀から14世紀にかけて形成された、溝状遺構に区画された複数の居館跡が確認されている。展示は屋敷墓と考えられる土坑墓から出土した副葬品である。

2-8 延喜式 巻二十八(兵部省)

  • 員数:1冊
  • 縦:26.2cm、横:19.8cm
  • 江戸時代
  • 京都大学附属図書館所蔵
  • 後期展示

平安中期に編さんされた格式(きゃくしき)(律令の施行細則)で、日本三代格式の一つ。延喜5年(905)、醍醐天皇の命により編さんが開始され、延長5年(927)に完成し、改訂がなされて、康保4年(967)より施行された。

延喜式は全50巻ならなる。本書はそのうちの巻二十八であり、兵部省の部にあたる。この中の諸国駅伝馬条には五畿七道の402箇所の宿駅が記されているが、そこに島津の駅名がある。

3 島津荘の立荘と拡大

3-10 小右記

  • 員数:1冊
  • 縦:28.1cm、横:19.5cm
  • 江戸時代写
  • 京都大学附属図書館所蔵
  • 後期展示

平安時代の公卿・藤原実資が記した日記。本書名は実資が「小野宮右大臣」と称していたことにちなむ。全61巻。藤原道長・頼通の全盛時代の社会や政治、宮廷の儀式、故実などを詳細に記録してあり、それらを知るうえで大変重要な史料である。 記述は、特に実資と同時代の当主道長の政治および人物を痛烈に批判する内容を含む、55年間の長期の記述であるため摂関時代の社会の状態や有職故実がよく理解できる。

本資料はこの小右記を抜粋、簡易にまとめたものである。

3-15 源氏物語屏風​

  • 紙本著色
  • 6曲1双
  • 1隻:縦170.4cm、横385.8cm
  • 江戸時代
  • 公益財団法人林原美術館所蔵
  • 後期展示

岡山藩主池田家伝来品。右隻には「夕顔」、「葵」、「胡蝶」、「若紫」など11場面、左隻には「紅葉賀」、「関屋」、「初音」など11場面あり、いずれも『源氏物語』全54帖の中から適宜選ばれた場面が描かれている。各隻には「宗貞」の印が捺されている。宗貞の経歴については定かではないが、『古画備考』によれば、元和2年(1616)頃、狩野派の画人12名のうちの1人として、寄合書・押絵貼形式の「二四孝図屏風」(現存せず)の製作に携わっていたことが知られている。

3-17 栄花物語 巻廿八九卅

  • 員数:1帖
  • 縦:16.3cm、横:14.9cm
  • 鎌倉時代
  • 九州国立博物館所蔵
  • 後期展示

藤原道長を頂点とする藤原北家の栄華を中心に描いた歴史物語。全40巻で正篇30巻、続篇10巻からなる。本書はもと三条西家に伝来し、のちに梅沢本と呼ばれたもので、巻第一〜巻第二十までを1冊ごとに2巻ずつ収める大型本10冊と、巻第二十一〜巻第四十までを1〜3巻ずつ収める小型本(枡形本)7冊からなる。現存する諸本の中で書写年代が最も古く、良質な本文と多くの勘注を有する点で貴重であり、各種刊本の底本とされている。

巻卅(三十)は「鶴の林」の標題がついている。藤原道長の最期を記した部分。

​3-19 元仁2年2月21日付島津庄政所勘録状(冨山文書)

  • 員数:1通
  • 縦:30.5cm、横:98.3cm
  • 平安時代
  • 宮崎県総合博物館所蔵
  • 後期展示

元仁2年(1225)2月に島津荘政所が後代の訴訟にそなえて作成した記録。

島津荘惣政所の管理機構が機能していたことがわかる。

また文中に、島津荘内某村と某社領との境界争いについて、「(当)国守護所」「御領方惣奉行所八木入道」「惣・・・庄司」に三者が現地調査を行い、某社神官等の訴えが誤りであることを確認したとあり、この某社を正八幡宮、当国を大隅国と解してよければ、北条氏守護・惣地頭体制下での島津荘管理の様相を伝える貴重な史料である。

​3-20 平家物語絵巻 巻一上

  • 員数:1巻
  • 縦:35.3cm、横:3300.0cm
  • 江戸時代前期
  • 公益財団法人林原美術館所蔵
  • 後期展示

本作は、江戸時代の『平家物語』の流布本を底本とし、源平の戦いと平家の栄華、没落など、その全文と場面を描く挿図が納められている。現在確認されている資料の中で、林原美術館蔵の「平家物語絵巻」が、日本で唯一の完本として知られている。

この「わが身のゑい花(栄華)の事」は平氏一門が隆盛を極めた時期について記している部分である。藤原基実の夫人であった清盛の娘盛子が、島津荘の実質的な本家として領有していた当時をしのばせる部分である。

3-21 寿永2年8月8日付島津庄別当伴信明解状(入来院家文書)

  • 員数:1通
  • 縦:30.7cm、横:55.7cm
  • 平安時代
  • 東京大学史料編纂所所蔵
  • 後期展示

寿永2年(1183)8月、島津荘の別当であった伴信明が、同荘留守所に差し出した書状。解状は、下級の役人や個人が上級の役所や上位者に上申する際に用いられた様式の文書。

島津荘の別当であった信明の申請内容は以下のとおり。薩摩国薩摩郡山田村は信明の先祖相伝の地であるが、不慮なことに信明父信房の時、同国の住人忠景の押領に遭った。すでに故人である忠景は、寺社領や、荘園・国領の年貢等を押領し、その舎弟忠永に至っては所領を押領した。さらに薩摩郡弁済使も恣意に押領しはじめ、これらの非道を阻止するため訴えたのであった。この頃は京において大きな合戦があり(治承・寿永の乱)、この勝敗により地方は大きく影響を受け、このような争いが起きた。

3-22 文亀2年 某(蒲生)氏系図

  • 員数:1通
  • 縦:34.7cm、横:201.0cm
  • 戦国時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

奥書に文亀2年(1502)銘が記された系図。冒頭部分に姓氏が記されていないが、実名から、伊集院郡司職にあった紀姓伊集院氏の系譜であると推測される。

僧舜雲が永仁2年に亀石の名主職を持ち、その子道舜が薩摩国伊集院下神殿久冨名山下榎田及び東福寺方の預主であった。また舜清の嫡女は伊集院郡司の妻であるなど、伊集院氏が薩摩国伊集院一帯において強い影響力を有していたことがうかがえる。

3-23 春日宮曼荼羅図

  • 絹本著色
  • 員数:1幅
  • 縦:68.6cm、横:29.7cm
  • 鎌倉時代
  • 九州国立博物館所蔵
  • 後期展示

画面上方を東として、奈良・御笠山と春日山を背にして広がる春日社の境内を俯瞰的に描いたもの。画面下辺に描かれた一の鳥居にはじまり、そこから上方にのびる参道を行くと、左側に四神を祀る本社、さらに進んだ右側に若宮を祀る若宮社が現れる。参道を一直線に描くのではなく、折れ曲がりながら本社に至る点は、法隆寺本など初期の作例に通じる古い要素と言える。社殿や樹木などの描写は丁寧かつ精緻で、貴族たちが自邸において個人的な礼拝を行うに相応しい優美な小幅である。

4 島津氏と島津荘

​4-28 東鑑 巻六・十七・二十一 (島津家文書)​

  • 員数:3冊
  • 縦:30.6cm、横:22.4cm
  • 江戸時代
  • 東京大学史料編纂所所蔵
  • 後期展示

『東鑑(吾妻鏡)』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで、治承4年(1180)から文永3年(1266)までの幕府の事績を編年体で記している。全52巻(ただし第45巻欠)とされる。日本における武家政権の最初の記録と評されている。

巻六は文治2年(1186)4月20日条に知足院に付属する高陽院(かやのいん)の荘園が50数ヶ所あったことが記されているが、島津荘がこの中に含まれているとみられる。巻十七の建仁3年(1203)9月4日条には、比企氏の乱に連座し、島津忠久が大隅・薩摩・日向国の守護職を没収された記事がある。そして巻二十一の建暦3(1213)年2月2日条には、学問所番として島津左衛門尉(忠久)が名を連ねている。

4-29 州浜牡丹蝶鳥鏡

  • 員数:1面
  • 径:18.9cm、縁高:0.4cm
  • 鎌倉時代
  • 京都国立博物館所蔵
  • 後期展示

茶色で、背面に黒漆状の塗膜が所々残る。鏡面に鍍錫がなされた扁平球形の素鈕で、紐孔軸のハバキ痕が残るにもかかわらず、孔が貫通していない。鏡胎は厚さ1.5mmと薄く、左上方に懸垂孔があり、州浜から伸びる牡丹をダイナミックに描く。

本鏡と牡丹の花・葉、双鳥など細部表現の特徴が全く同じで、同一工人の手になる鏡が鹿児島県新田神社に伝来する。その鏡は「左衛門尉友俊 永仁二年(1294)三月十八日 施入之」の針書銘があり、伝世を考慮しても13世紀後半の製作とみてよく、本鏡も同時期の製作であろう。

4-30 太刀 無銘(二字国俊)

  • 員数:1口
  • 長2尺5寸5分
  • 鎌倉時代
  • 個人所蔵
  • 全期展示

国俊は来国行の子と伝え、現存する作には、銘字に来の字を冠しないいわゆる二字国俊と、「来国俊」の三字銘に切るものとがある。両者は、作風的にある程度違いがあり、このことから二字銘と三字銘は同人・別人の両説がある。一般に、二字国俊の作風は華やかな丁子がみられるもので、備前物の気質があらわれているが、沸の出る焼刃であること、刃の中に見える足(線状にみえる)が、備前物とは逆方向に入っているところは特徴的である。

この太刀は生(磨り上げられていないこと)で無銘だが、上記の見どころがあらわれており、鎌倉期の刀工を代表する国俊の作刀と認定された逸品である。

4-31 薩摩国伊作庄日置北郷下地中分絵図

  • 員数:1幅
  • 縦:97.3cm、横:62.5cm
  • 鎌倉時代
  • 東京大学史料編纂所所蔵
  • 後期展示

この絵図は、元亨4年(1324)、近衛家が領する島津荘の薩摩国日置北郷(現在の鹿児島県日置市)における下地(収益のある土地)の相論において、領家と、地頭との間に和議が成立したときに作成されたもの。全国的にみても、こうした相論に関する絵図史料として代表的なものである。

和議の内容は、伊作庄・日置北郷及び日置新御領の田畠・山野または荒野・河海といった全土地を双方に中分し、領内の年貢収納事務や警察権などを各々が実施できるようにする、というものであった。しかし、日置北郷が、川や道を利用した線引きになり複雑になったことから、境界線をはっきりさせるために本図が作成されたとみられる。

絵図中には「地頭所」と「領家政所」の2つの政治的な部署が記載されており、このころに地域行政組織が存在していたことがわかる。また鎌倉後期には、土地を二分するような幕府方と荘園方の相論が巻き起こっていたことをうかがわせる。

4-33 正安2年6月15日付藤原家泰譲状(本田文書)

  • 員数:1通
  • 縦:29.2cm、横:42.8cm
  • 鎌倉時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

これは正安2年(1300)6月、藤原家泰が、相伝してきた薩摩国山門院針原村(鹿児島県出水市)の田畠・荒野について、子息熊鬼丸へ永代に譲渡することとし、これまでの関係証文については、嫡子である幸寿丸へ譲渡すると記した譲状である。

山門院は島津荘寄郡。当時は、このような譲状を作成したのち、これをもって幕府から安堵の書状を受領する手続きとなっていた。また「さうてんの所りやう(相伝の所領)」とあるように、鎌倉後期、もはや土地の相伝は当然のものと考えられていたこともうかがえる。

4-34 正安2年6月15日付藤原家泰売券(本田文書)

  • 員数:1通
  • 縦:30.5cm、横:42.8cm
  • 鎌倉時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

売券とは、売主から買主へ渡される証文のこと。

正安2年(1300)6月、山門院の院司であった藤原(鮫嶋)家泰は、相伝の地である薩摩国山門院針原村の田畠・荒野等を、先季の頃に薩摩国の御家人・時吉太郎通泰に売却した。通泰はさらにこれを本田左衛門尉に売却したのである。ところが幕府による徳政が発令されたことにより、家泰の手に返った。しかしながら家泰は、永代に本田左衛門尉へ売却したのである。鎌倉後期の土地所有の諸事情をうかがうことができる史料である。

4-35 正和3年3月10日付藤原家忠同家泰連署売券(本田文書)

  • 員数:1通
  • 縦:28.6cm、横:41.4cm
  • 鎌倉時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

正和3年(1314)3月、藤原(鮫嶋)家泰相伝の地であった薩摩国山門院竹原町2段の土地について、本田入道へ永代に売り渡す旨、家泰・家忠連署にて記されている。文末にあるように、売却にあたっては、国衙・島津荘領家及び地頭の関与が必要であったとみられ、それは年貢及び臨時課役の徴収に関わるものと考えられる。

4-37 太刀 銘豊後国僧定秀作

  • 員数:1口
  • 長2尺5寸9分
  • 平安〜鎌倉時代
  • 公益財団法人日本美術刀剣保存協会刀剣博物館所蔵
  • 後期展示

重ね(刀身の厚さ)がやや厚めで、腰(こし)反(ぞ)り(手元に近い部分で反る)が高く踏張りをみせ(手元と切先の幅に差がある)、優美な太刀姿を呈する。鍛えは、板目肌がきれいにあらわれ、柔らかみのある鉄味をみせる。刃文は細めの直刃(すぐは)で、小乱れ(刃文のわずかな乱れ)を交え、茎(なかご)(持手部分)は生ぶ(磨り上げられていないこと)である。

豊後には薩摩と並んで古くから刀工がおり、行平と共に著名な刀工として定秀が挙げられる。鎌倉末期の最古の古剣書である『観智院本銘尽』では、項目を別にたてて記載されている。また、行平の師とも弟子ともあり、行平の作品に元久2年(1205)銘がある(重要美術品)ことから、定秀のおおよその制作年代を推し量ることができる。

定秀は、かつては三千の宿坊を誇り一大修験道場として栄えた、現在の福岡県と大分県にまたがる英彦山の学頭を勤めたと伝えられ、銘文にも「僧」とあることから、肯定されるべきであろう。

本作は、遺存するものが少ない同工の作品として極めて貴重であり、作柄としても、古九州ものに通じる出来栄えである。古風な中にも風格ある佇まいを兼ね備える逸品といえる。

4-38 正安2年11月19日付法橋隆宗書状(本田文書)

  • 員数:1通
  • 縦:29.5cm、横:39.0cm
  • 鎌倉時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

正安2年(1299)11月、荘園の事務を司る雑掌職にあった法橋隆宗が出した書状。薩摩国山門院針原名の内10町歩強の土地につき、国衙方による総検田に関して争論となり、その和議がなったため、訴訟が停止されたことが記されている。宛先は針原(本田)熊鬼丸。

4-39 正慶2年閏2月19日付島津道鑑下文(本田文書)

  • 員数:1通
  • 縦:33.7cm、横:51.5cm
  • 鎌倉時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

正慶2年(1333)閏2月、島津貞久が発した下文。本田宮内左衞門入道道観(親兼)へ薩摩国山門院西方内の名田等について、本田道観の奉公に対する恩賞として知行すべき旨を命じたものである。山門院は14世紀半ばころには野田川を境に、東方と西方に分かれていた。本状には西方と記されており、そのことを裏付ける。

​4-41 嘉暦3年7月28日付久木崎初房丸代道覚和与状(三国筆苑)

  • 員数:1通
  • 縦:30.1cm、横:41.3cm
  • 鎌倉時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 後期展示

嘉暦3年(1328)7月、久木崎初房丸の代理・道覚が出した和与状。和与状とは、和議成立時に当事者双方で交わされる合意文書のこと。

長瀬又五郎宗重と久木崎備前房賢亮の後家・尼妙心及びその子初房丸との間で、薩摩国伊集院河俣名久木崎村内田畠等について争いがおこった。結果、宗重が年貢や公事を滞りなく納めていることから、以後は長瀬氏の所領として和議を結ぶことになったようだ。

5 おわりに

5-43 文和3年8月16日付兼阿譲状(本田文書)

  • 員数:1通
  • 縦:31.0cm、横:47.7cm
  • 南北朝時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

文和3年(1354)8月、兼阿(本田久兼)が菓成河殿に対して発した譲状。

本田家重代の鎧・太刀、兼阿亡き後の職位や所領等について、かな太郎(忠恒)を嫡子とし譲渡することを記したもの。

5-44 応安7年8月22日付尼聖興譲状(本田文書)

  • 員数:1通
  • 縦:29.1cm、横:41.7cm
  • 南北朝時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

応安7年(1374)8月、聖興尼が子息本田左近蔵人兼久へ出した譲状。聖興相伝の地である薩摩国山門院菓成河村内の所領につき、子息兼久へ永代に譲渡すると記す。ただしこのうち、兵衛二郎・金明姫御前への譲与分を除く。当地において違乱や煩いがおきないよう、一族兄弟の結束を固守させ、国衙・領家・地頭への年貢・公事については先例のとおり施行すべきと記している。

5-45 櫛間院西方坪付(永井文書)

  • 員数:1綴
  • 縦:13.3cm、横:31.5cm
  • 戦国時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

櫛間院(串間市)西方の坪付を書上げたもの。坪付は坪ごとの田畑の所在地や面積を示すことをいう。都城島津家家臣の永井家に伝わったものであるが、戦国期、永井家は串間を領していた島津豊州家の重臣であったとみられる。南九州における農民のグループ形態である門ごとに面積が表記されている。とりわけ、この櫛間院西方の名称が、古代における倉庫を表す「院」と、中世に至り櫛間院が東西に分立したとみられる「西方」の表記から、戦国期に至っても荘園制の名称を使用していることがわかる興味深い資料である。

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