本文
7代 北郷数久(ほんごうかずひさ)(?~1521)
北郷敏久(としひさ)の長男。母は野辺盛仁の娘。
数久の時代になると、島津氏領内は領地問題などで内部争いが頻発し、島津本家が弱体化していました。北郷家内でも島津氏からの独立の気運が高まり、周辺の豪族との連合体制を強化していきました。そこで、数久は北郷家の独立を目指して、1494(明応3)年、新納氏(にいろし)らと手を結び、島津本家4代久豊の分家筋で梅北城の島津忠明を攻めるなど、都城盆地統一に向けた基礎固めに奔走しました。
一方、1495(明応4)年、伊東尹祐(ただすけ)が島津忠昌から三俣院1,000町を得たことから、北郷家と伊東家の争いは次第に激化しましたが、数久は自身の娘を飫肥の島津豊州家(ほうしゅうけ)・忠朝(ただとも)に嫁がせるなど伊東氏への牽制を図り、都城盆地での支配権を固めました。
1521(大永元)年、安永城にて死去。法号を釣璜院殿哲翁忠英大禅定門。墓所は釣璜院跡(ちょうこういんあと)(都城市庄内町)。