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島津家と元寇対策
鎌倉時代中頃、日本列島は史上最大の侵略を受けました。元寇です。元は日本を傘下に入れようと何度も使者を派遣しましたが、時の執権北条時宗は拒否していました。すると文永11年(1274)と弘安4年(1281)の二度、元軍が大船団を率いて来襲、博多へ迫ったのです。
幕府は御家人を動員して応戦しましたが、軍事力に大きな差があり苦戦しました。いずれも暴風雨が吹き荒れたため、元軍は壊滅的な打撃を受けて退却したことから事なきを得ました。しかし幕府は元寇に対する恩賞を御家人へ出すことができず、次第にその力を弱めつつありました。
それでも幕府は将来再びあり得るかもしれない元寇に備え、西国御家人達を北部九州の警固と防塁(石築地)の建造にあたらせました。実は島津氏もこの役目を担っていたのです。島津宗家四代忠宗は南九州の御家人を動員して警固と築地建造を行いました。この役目は幕府滅亡まで続けられます。
現在、福岡市今津地区に残る防塁跡の一部は南九州の御家人達が築いたものと伝えられています。