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都城に生まれた唐人町
東アジアとの交易が活発になった15世紀以降、南九州の各地には日本に渡来した唐人達によって唐人町が形成されていきます。鹿児島・宮崎の南九州における唐人町は、市来、坊津久志の博多浦、国分、小根占、高山、東串良、串間、外之浦、飫肥、都城が挙げられ、現在でも唐人町にまつわる地名が残されている場所もあります。
円通庵標柱
都城に唐人町が形成された時期は戦国時代と考えられます。明代の圧政から逃れ内之浦に漂着した人々が、都城島津家10代領主北郷時久に召抱えられ、安永諏訪馬場(都城市庄内町)に住むことになったのが始まりです。その後、唐人町は祁答院(けどういん)湯田八幡、宮丸村湯田八幡と場所を変えて、最終的に都城市中町付近に落ち着きました。
「庄内地理志」巻十四によると、町の長さは144間(262m)あり、焼酎屋や豆腐屋等様々な店が並び、定期的に市も開催されたようです。
現在は、唐人町入り口にあった円通庵の標柱が立てられているのみで、当時の面影はほとんど残っていませんが、史料の中では新天地でたくましく生きる唐人やその子孫達の姿を見ることができます。