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都城県の誕生

記事ID:9085 更新日:2020年3月8日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

三県分界之図

明治の初め、都城に「都城県」が置かれたことを皆さん知っていますか。
明治時代、新政府は、天皇を頂点とする中央集権体制を目指して明治2年(1869)に版籍奉還(はんせきほうかん)を行い、さらに明治4年(1871)廃藩置県(はいはんちけん)を敢行し、日本各地を治めていた藩を廃止し、新たに県を設置しました。
この時日本には3府320県が置かれ、日向各藩領域には延岡県、高鍋県、佐土原県、飫肥県、人吉県、鹿児島県の6県が誕生ました。
しかし、廃藩置県によって誕生した新県の管轄領域は、江戸時代の藩支配領域をそのまま引き継いだもので、真に藩を解体したとは言えませんでした。それを踏まえ、新政府は明治4年の10月~11月にかけて改置府県(かいちふけん)を行い、3府302県あった府県を3府72県にまで改廃しました。これによって日向各藩に置かれた6県は廃止され、新しく八代県・美々津(みみつ)県・都城県・鹿児島県が置かれました。ここに都城県が誕生します。

都城県の参事(さんじ)(現在の県知事)には、当時鹿児島藩政の中枢で活躍していた桂久武(かつらひさたけ)が就任しました。都城に到着した桂は、翌日県庁を定め(現在の都城市役所)、朝旨(ちょうし)の尊奉・学業の勉励・民事の勧興といった3つの布告を県内に発し、都城県政に着手しました。
こうして、都城は鹿児島藩から県という独立した存在になり、その後発展成長していくかにみえましたが、明治6年(1873)突然の廃県を迎え、宮崎県へと引き継がれることになります。

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