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義烈塔の建立
島津家墓地のある龍峯寺跡(都島町)に「義烈塔」と呼ばれる大きな石塔があります。これは、安政5年(1858)11月、25代島津久静(ひさなが)によって建立(こんりゅう)されたものです。都城島津家の元祖北郷資忠(ほんごうすけただ)から12代忠能(ただよし)に至る間に戦死・殉死(じゅんし)した家臣505人の名が刻まれています。
この石搭が建てられた時期は、西洋列強が開国を求め、国内では一揆や打ちこわしが多発する動乱の時代でした。薩摩藩でも倒幕を目指す武士が現れ、島津久光はこうした幕府への直接的な動きは藩をあげて一体的に行うと領内に達していました。
こうした時期に都城島津家臣北郷亮輔(りょうすけ)・北郷十郎・龍岡小八郎の三人が安政5年6月に、これまで国(都城島津家)のために亡くなった人たちの名前を刻んだ「大石塔」を造り、家臣の心をひとつにすることを提案しました。この提案を受けて久光の娘婿である久静が建立したのが「義烈塔」でした。