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玉窓院と疱瘡(ほうそう)

記事ID:9087 更新日:2020年3月8日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

史料の画像江戸時代、民衆を脅かし続けた病に「疱瘡(ほうそう)」があり、毎年のように流行した病です。疱瘡とは現代で言う「天然痘(てんねんとう)」です。当時は有効な治療法がなく、罹患(りかん)すれば40度の高熱を発し、全身や内臓に膿疱(のうほう)が広がります。失明等の重篤(じゅうとく)な後遺症を残し、最悪呼吸不全により死に至るという恐ろしい疫病でした。都城でも疱瘡がしばしば流行し、とくに天保14年(1843)の被害は甚大(じんだい)で、10人に1人は亡くなったと伝えられています。

玉窓院(ぎょくそういん)も疱瘡に罹(かか)り命を落としました。彼女の生前の名は於岩(おいわ)といいます。都城島津家二十四代当主久本(ひさもと)の姉にあたり、享和元年(1801)に生を受けました。玉窓院という名は、彼女の死後に贈られた諡号(しごう)です。屏風絵に描かれた琴や書物、筆を見つめる仕草から、彼女が文才楽才に長けた才女であったことがうかがえます。

於岩が亡くなったのは文化13年(1816)です。この年にも疱瘡が流行しました。都城島津家の子どもたちも疱瘡に罹り、於岩1人が16歳という若さで死去したのです。

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