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島津久静と陣羽織

記事ID:9088 更新日:2020年3月8日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

史料の画像皆さんは、「緋羅紗地丸に十字紋陣羽織(ひらしゃじまるにじゅうじもんじんばおり)」という名の陣羽織のことをご存知ですか。

これは、都城領主島津久静(ひさなが)が着たもので、当時の大名でもなかなか作ることができない、たいへん高価なものです。彼はこれを着て、明治維新の幕開けに登場しました。

文久2年(1862)3月16日、島津久光は約1,000人の兵を率いて、京都に向かいました。これにあわせて、倒幕を目指す武士たちが続々と京都に集結し、たいへん治安が悪化していたのです。そこで、朝廷は久光に京都御所の警備を命じました。

島津久静の妻が久光の娘だったことから、久静は久光から信頼されていました。そのため久光は、自身が京都を発ち江戸へ向かった後の京都警備を、久静に任すことにしたのです。

久静への久光からの上京命令は、文久2年4月25日に伝えられました。久静は霧島の温泉に療養中で、そこから直接鹿児島へ向かいます。そして、5月4日、兵200人を率いて鹿児島を立ち、19日に京都へ入り、翌日、京都藩邸で久光と面談、京都警固と朝廷の守護という大役を命じられたのです。陣羽織はこのときに着たものかも知れません。

しかし、久静は旅の疲れからか、当時流行していたはしかにかかり、京都についてわずか1週間で亡くなりました。その死は、世間を動揺させてはならないという理由で秘密にされ、家来たちが京都警固と朝廷の守護という任務を遂行したのでした。

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