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江戸時代の門割(かどわり)制度

記事ID:9089 更新日:2020年3月8日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

江戸時代には農民の家5~20軒が集まった「門(かど)」という組織がありました。門は村の基礎的な単位で、リーダーである名頭(みょうず)の家と、構成員である名子(なご)の家からなり、一定の地域にまとまって居住していました。そして、農業や日常生活も門を単位に協働して行われていたのです。

領主は門ごとに耕地を割り当て、一定の期間ごとに割りかえる門割制度を採用していました。これは、場所によって生産力に違いがあるので、公平にするために採用された制度でした。

この門割を巡って、都城では注目される事件が起きています。享保8~12年(1723~27)に検地に併せて門割が行われました。上長飯村の門の農民たちは、農地が自宅から遠く耕作に都合が悪いと、門割のやり直しを求めました。これを受けて、庄屋などの役人は、担当する役所に申し入れを行いました。その結果、名頭たちの要求通りに門割のやり直しが決定し、領主は内々で処理するように命じたのです。

門割は領主によって一方的に行われてきたと考えられてきましたが、都城の事例から農民側の主体的な動きもあったことがうかがえます。

門は一定度の均分制を保ちながらも、地域によっては、その規模の違いがありました。これは、ここで見たような農民側の主体的な動きがあったからでしょう。

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