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江戸時代の都城の町(平江町・新町)

記事ID:9092 更新日:2020年3月8日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

江戸時代の平江町は、三日町と八日町という名の町からなり、南側が三日町、北側が八日町でした。はじめ、飫肥の領主となる伊東氏が高木(都城市高木町)を領していたとき、高木の平江という場所に町を置き、その地名から平江町と称したといいいます。地名をそのまま残し、近世の平江町が形成されました。

新町は、江戸時代の三重町(みえまち)と後町(うしろまち)をあわせた町の名称で、現在の都城市西町と八幡町にあたります。東半分が三重町、西半分が後町でした。

三重町の由来は、天正14年(1586)に北郷忠虎が豊後へ出兵し、同国三重郷の人700人を都城本之原へ移住させ、町立てしたことに始まるといいます。

後町は、はじめ安永本町(都城市庄内町)の後ろに設置されましたが、中尾口に移り、中尾口にあった本町の南側に置かれました。さらに、北郷忠能の代に三重町の並び、元服坂の通りに移されたといいます。後町は天正期にはすでに市が立っていることが確認でき、市日は4日・14日・24日の「4」の日でした。

江戸時代の「元和の一国一城令」のとき、新町は、本町に隣接する場所に移転する予定でしたが、その移転場所から、城を見透かして本丸跡の蔵がみえるということから、城山のまわりの草木が茂ってから移ることになりました。しかし、移転は遅れ、元禄5年(1692)に三重町・後町の住民からの訴えによって、ようやく新地に移転したのでした。

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