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北郷氏の「島津」復姓-都城島津氏の創出
寛文2年(1662)、藩主光久の二男で都城領主であった北郷久定(ひささだ)が19歳で早世すると、その後継者問題が藩と都城の間で起こりました。
藩は、藩主光久の三男喜入摂津守忠長を久定夫人であった千代松と結婚させて、都城領主とすることを伝えました。併せて、忠長に「島津」姓を名乗るように指示したのです。
北郷家には忠能(ただよし)の血を引く久常がいましたが、光久は自らの子どもを領主として派遣しました。
このことで北郷家の一統が不満を抱くことを心配して、光久は、久常に対して北郷家伝来の重物と300石を与えることを決めました。
これに対して久常は、自分か8歳になる子どもに「惣領職」を拝命したいと希望して、それが不可能なら重物と300石拝領の件は拒否すると回答しました。
この回答を受けた藩は態度を硬化し、久常に対する重物と300石の件は取りやめ、忠長の領主就任と島津名乗りを強行することを通達してきたのです。
結局、久常も従わざるを得ず、忠長の領主就任と「島津」姓への復姓が行われたのでした。
北郷氏の島津への復姓は、都城領主の後継者を、藩主の意向によって、島津本家血筋の者が引き継いだ上で「島津」姓を名乗らせたというのが実状だったのです。ここに新たに「都城島津家」が創出されたのです。